『奴隷のしつけ方』奴隷を中州に捨てるべからず

鰐部 祥平2015年06月18日 印刷向け表示
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奴隷のしつけ方
作者:マルクス シドニウス ファルクス 翻訳:橘 明美
出版社:太田出版
発売日:2015-05-28
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『奴隷のしつけ方』と衝撃的なタイトルだ。著者はマルクス・シドニウス・ファルクスというようだ。古典なのだろうか。本書を手に取り、パラパラとページをめくると違和感を覚える。マルクス・シドニウス・ファルクスとは何者なのか。記憶の糸を手繰る。しかし、思い出せない。本書の帯には「何代にもわたって奴隷を使い続けてきたローマ貴族の家に生まれる。」とある。書店でスマートフォンを取りだし、検索してみる。ウィキペディアでも見つからない。謎は深まる。

答えを求めてページをめくる。翻訳者のあとがきを読んだとき、謎が解けた。

本当の著者はジェリー・トナーという男だ。解説者として表紙に名前がある。ケンブリッジ大学の古典学研究者のようだ。そう、著者とされるマルクス・シドニウス・ファルクスとは架空の人物だ。本書は古代ローマ帝国時代の奴隷という存在がどのようなものであったかを、架空の人物に語らせ、各章の末尾に本物の著者トナーが解説を加える、という体裁になっている。フィクションでもありノンフィクションでもある不思議な本だ。

このようなスタイルの歴史本は他にもある。ローマ時代のものならばアルベルト・アンジェラの『古代ローマ人の24時間』や『古代ローマ1万5000キロの旅』などだ。日本人の著作ならば本村凌二の『帝国を魅せる剣闘士』といったところであろうか。

本作はマルクス・シドニウス・ファルクスが、奴隷主が心得ておくべき奴隷掌握術を記したマニュアル本という設定だ。奴隷の買い方から始まり、奴隷の解放と解放奴隷の扱いまでが詳しく解説されている。

まず奴隷はフォルム・ロマヌスにあるカストル神殿の裏手にある市よりもサエプタ・ユリアで商売している奴隷商から買う方がよいらしい。ここでは、エジプトの美少年や法律で禁止されている、去勢された少年も買うことが出来たという。どうやら、帝政中期のローマ帝国では去勢された少年奴隷を売買することは禁じられていたようだ。

また当時は「姥捨て山」ならぬ「奴隷捨て中州」とでも呼びたくなる場所が存在したようだ。年老いて労働に耐えられなくなる、または病気で動けなくなった奴隷をティベリウス川の中州に捨てる行為が横行したという。ファルクスはこのような無慈悲な行為に憤りを感じ、かつ奴隷を捨てることは法律違反だと指摘する。クラウディウス帝がこの悪習を禁止させようとしたことが著者より解説さている。ただし、奴隷の待遇改善を考えてではなく、あくまでも治安等の問題のためだったようだ。

ファルクスは奴隷の扱いに正義は必要だとしているが。それは、むろん啓蒙的な意味というよりもファミリアの長としての義務感のようなものである。著者は奴隷に公正な扱いを求めるストア学派的な考え方は、一部の知識人階級の抽象的な考えであり、社会一般にどれほど浸透していたかはわからないという。実際の奴隷の扱いでは行き過ぎた体罰が横行していたようだ。

ファルクスも行き過ぎた体罰はするべきではない、としながらも奴隷が罰に値するような行為を行った際は、主人が誰であるかを知らしめるために、体罰を加えるべきだと主張する。ちなみに彼のお勧めは、請負業者に体罰を代行させるもののようだ。地元の評議会がこのようなサービスを手頃な料金で提供していたらしい。

古代ギリシャは人種差別的な奴隷制度を採用していたが、ローマ社会の奴隷制度は基本的には人種差別的な制度ではない。ローマでは奴隷が解放されれば市民権を得ることができる。ただし、解放奴隷は公職に就くことは許されなかったという。もっとも解放奴隷である事を隠し、公職に就くものが後を絶たず、大きな社会問題ともなっていたようだ。

奴隷の解放の仕方にも様々な問題があったという。主人が寛容さを示そうとして、市民権を得るにはふさわしくない、ならず者たちを大量に解放する風潮があるとファルクスは憂慮している。

また、増え続ける奴隷および解放奴隷が問題視されてもいた。ローマ社会に増え続ける非ローマ人により、ローマの伝統やローマ精神が消失してしまうのではないかという危機感が根底にあったようだ。属州の人々や解放奴隷を巧みに社会に組み込み、社会の流動性を保つことで大きく発展したローマではあるが、増え続ける異質な存在に拒絶反応も見せていたのだ。この点は、現代の移民問題などと照らし合わせて考えても面白い。

その他にも、奴隷女に生ませた子供の待遇や、解放奴隷がなかなか「クリエンテス」としての務めを果たそうとしない、などといった愚痴など、面白いエピソードが随所に散りばめられている。ローマ社会の奴隷と主人という関係は、階級闘争的な二元的世界で見る事はできない。

奴隷たちは早ければ5年ほどで解放される場合もある。そして解放後の社会復帰を多くの主人が手伝った。そのおかげで巨万の富を築くものもいた。だが、それでも奴隷であったときの苦しみは心の襞の奥深くにまで入り込む。奴隷と奴隷主との関係は愛憎が入り混じった複雑な感情の世界だったようだ。本書に書かれた「奴隷の数だけ敵がいる」という言葉はどこまでも意味深んだ。

ちなみに奴隷制度など過去の話と笑う事はできない。フリー・ザ・スレイブスというNGO団体によると世界中で暴力的に支配され、無給で働かされている人々が世界中で2700万人もいるという。奴隷制度は間違いなく、現代社会にも深くその根を下ろしているのである。

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 久保洋介による本書のレビューはこちら

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