『三省堂国語辞典のひみつ 辞書を編む現場から』三省堂国語辞典の行間 文庫解説 by サンキュータツオ

新潮文庫2017年01月29日 印刷向け表示
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三省堂国語辞典のひみつ: 辞書を編む現場から (新潮文庫)
作者:飯間 浩明
出版社:新潮社
発売日:2017-01-28
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本を読んで気になることのひとつに、その著者がどんなパーソナリティの人なのか、ということがあると思います。

飯間浩明先生は、テレビやラジオに出演されることも多いので、すでにご存じの方も多いかもしれませんが、ここでは私から見た飯間先生について述べたいと思います。

私は趣味で国語辞典を収集していることから、飯間浩明先生とは、国語辞典を扱ったテレビ番組やイベントを通じて何度かご一緒したことがあります。また、早稲田大学第一文学部の先輩でもあり、大学院にも共通の知人が何人かいるという、比較的近しい場所にいらっしゃる方でもあります。

文章から受ける印象としては、どんな用例でも出典を明らかにしたり、証拠と根拠を示して主張したり、さらにそれらのことをわかりやすく丁寧な表現で伝えることを心がけていらしたりと、学者らしさ、誠実さ、真面目さが伝わってきます。一方で、反論を恐れる学者が使いがちな、「かもしれない」「だと私は思う」などの表現は極力控えられていて、「です・ます」調を使用しながらも、力強く自信に満ちた表現が多い。

ここに私は、だれよりも証拠を集め、自分なりにその現象について考えたというプライドを感じます。回りくどい表現ではなく、「要するになにか」を伝える姿勢は、三省堂国語辞典だけではなく、飯間浩明という人の文章にも影響を与えているのかなと思います。

とはいえ、誤解しないでください。飯間先生はプライドが高くてだれの意見も受け付けない、という意味ではありません。自分はここまでやりました、反論があればぜひ遠慮なく言ってください、という姿勢なのです。

もちろん学者は研究を通して自分の考えを伝える職業ですが、それはあくまで手段であって、目的は「よりよい考えはなにか」ということを知ることにあります。自分の考えを自分でアップデートできるならそれは幸せなことですが、他人の意見によってアップデートするのもやぶさかではありません。むしろ感動を伴ったりします。自信を持って考えを述べるところまで自分を追い込んでおきながら、どこかで自分を否定してくれるような圧倒的なアイデアに出会いたいものなのです。

なぜそう言えるかというと、それは飯間先生がほかでもない、三省堂国語辞典の編者であるからです。もし、言葉の使い方に関して、こうあるべきだとか、正しい使い方はこれだ、という考えを持っている人だとしたら、とてもじゃないですが三省堂国語辞典の編者はつとまりません。日々触れる新しい言葉、新しい用法には、保守的な人からすると、眉をひそめたくなるようなものも多いです。けしからん、こんな言葉は認めん!と思ってしまっては、そこで思考停止してしまいます。

もちろん、言葉の「正しさ」なるものを求めて、国語辞典をひく人は大勢います。むしろ、学校教育で「正解」と「不正解」を教えられてきた人にとっては、「言葉は生きているから、正解は時代によってかわる」とか言われても混乱しますよね。そうした需要にこたえて、思考停止ボタンとして「規範」を示す辞典もちゃんとあります。

しかし飯間先生は三省堂国語辞典の編者です。「キター!」や「www」や「やばい」など、現代人が接する言葉は偏見を持たずに観察する。むしろ興味をもって探究する。それが三省堂国語辞典だからです。

本書のなかでも、「させていただく」という表現についてのくだりで、飯間先生はご自身の立場をこう表明しています。「私自身はどうかというと、これを嫌う人もいる以上、なるべく自分では使わないようにしています。でも、人が使うのを聞いても、特にアレルギーは起こりません。」と。

〈辞書は"かがみ"である──これは、著者の変わらぬ信条であります。
辞書は、ことばを写す"鏡"であります。同時に、
辞書は、ことばを正す"鑑"であります。
(中略)時代のことばと連動する性格を持つ小型国語辞書としては、ことばの変化した部分については"鏡"としてすばやく写し出すべきだと考えます。"鑑"としてどう扱うかは、写し出したものを処理する段階で判断すべき問題でありましょう。〉

三省堂国語辞典の生みの親である見坊豪紀先生の言葉(第三版序文)です。この序文の行間には、小型辞典でやるべきこととはなにか、そして改訂のスピードが早い小型辞典にできることとはなにか、考えつくして辿りついた結論だ、という想いがにじみ出ています。飯間先生が、言葉に対してリベラルな考えをお取りになるのも、この「見坊イズム」を継承しているからだと思うのです。

学者がすべきことは、まず観察で、善悪や正誤はそのあとに検討すべきだ、まず現実を見ろ、という。もちろん、日本語学者はみな、「さ入れ言葉」や「ら抜き言葉」に関しても、複雑な想いは個々で感じてはいるでしょうが、否定する人はだれもおりません。自分が生きている間に起きている「現象」として捉えて、それがなぜ起こっているのかを考察します。ただ、国語辞典となると読者は正誤を知りたいので、その需要に応える場合もあるのです。しかし、三省堂国語辞典はその点、「こんな表現が出てきたぞ、興味深い!」と楽しんでいる様子で、読んでいて風通しがいい辞典です。

実際の飯間先生にお会いすると、まず驚くのが、iPadを持っているということです。街を歩きながら、見慣れぬ言葉を撮影し、用例を記述し、語釈を試みるのです。最初からすべてデータ化しているんですね。見坊先生は「用例カード」を使っていましたが、平成の世ともなると、タブレットか!と衝撃を受けます。

『舟を編む』という三浦しをん先生原作の小説が、映画化されたりアニメ化されたりしていますが、そもそもの時代設定としてはギリギリ1990年代、まだタブレットなどが存在していない時代だったと思うので、用例採集カードを使うロマンが描かれています。作品を読むと、文系の天才が紙に向かって悪戦苦闘している血のにじむような想い、が欲しくなるところですが、飯間先生は保守的に昔のままでやる!と頑なになるのではなく、便利なものは積極的に使っていく、という柔軟性を持っていらっしゃることに妙に安心しました。

辞書作りはチームプレーでもあります。本書でも実名を出して紹介されていますが、各分野の担当がみんなで知恵を絞って作っていきます。どの言葉を入れ、どの言葉を入れないか、入れるとしてどういう情報を記述し、どういう情報を削るか、そして意味をどう記述するか。チームの人間と共有するには、電子化するのが一番です。アップデートもできるし、アーカイブ化もできます。証拠もデータでそろえられます。雑誌を切り取ったり、写真を現像する手間もありません。すげー!と唸った瞬間です。

一方で、こんなことがありました。出版社がセッティングした国語辞典のトークイベントの打ち合わせにうかがったところ、いつまで経っても先生はいらっしゃいません。焦っている編集さんが「先ほど家を出られたそうです!」と教えてくれました。なるほど、用例採集に夢中なあまり、うっかりさんなところもあるんだなーと思っていたら、先生は携帯電話をお持ちではない、ということを知りました。

なんだってー! それ大学にたまにいる面倒くさい先生じゃん! と、最初はそう思いましたが、辞書編纂者には携帯は百害あって一利なし、いつでもいろんな連絡がくるのは気が散ってしょうがない。連絡はメールと自宅電話で済ませる範囲にしておかないと、集中して考える時間が作れないのでしょう。

たしかに、携帯電話についてはいろいろな考え方があります。用例採集に関してはデジタル化する一方で、時間管理に関しては自分のペースを守っていかないと、数年後、数十年後を見据えた仕事はできないんだろうなと思いました。ここは頑固というか、守らなければいけないところだと解釈しました。

かわいらしい一面もあります。テレビ番組の企画で、「リフレクソロジー」の用例採集をするということで、メイドさんのいるリフレクソロジーを体験し、整体やマッサージとの違いを記述する、という企画がありました。

先生は施術を受けつつニコニコしながら取材なさっていました。堅物なだけでは世の中のことはわかりません。キャバクラ・クラブ・スナックの違いに関しても取材をしました。普通だったら学者として、そして編者としてそういう場所に行くのはいかがわしく思われるのでいやだ、となるかもしれませんが、飯間先生はノリノリでした。お店に行ってもずっと質問です。

広辞苑には「キャバクラ」の項目がありません。それもキャバクラの存在を知っていながら、広辞苑に掲載する必要のない下品な俗語、ということで掲載が見送られたという経緯があります。ですが、もし旦那さんが行ったのがスナックで、奥さんがキャバクラとかクラブとの違いをご存じなかったら、喧嘩になってしまいます。接客する女性は何人か、どういうサービスがあるのか、厳密に定義する。言葉の意味とは、類語との比較のうえでしかできないゆえに、その好奇心はとどまるところを知りません。こういう人でないと、用例採集は難しいなと思いました。

断言しますが、国語辞典に関わる編者のうち、これほど街に出て実際の使用例を拾い、デジタルを駆使して語釈を考え、一定期間定着した言葉を掲載しているのは、飯間先生だけです。特に、新語や新しい用法に関して先生の仕事が決定的なのは、三省堂改訂以降の各国語辞典の改訂を見ればわかります。三省堂が入れた語を採用するかしないか、三省堂が入れていない語をどれだけ掲載するか。すべての国語辞典の基準となっているからです。

本書を読めば、三省堂国語辞典のすべての項目は、なるべく文字数を減らしつつ、情報を削らない、という一見矛盾するような理念によって支えられているのはおわかりかと思います。どの語釈も検討と洗練を繰り返し、例外の存在を暗示しつつ中心的な意味をしっかりと押さえてくれています。

お世辞を言うわけではなく、三省堂国語辞典をひくたびに毎回感動しています。

たとえば今日も「グルメ」という項目をひきました。どの国語辞典も「食通。美食家。」で済ませているシンプルな語と思えます。三省堂国語辞典の第六版でも、一言「食通。」と書いてあるだけでした。しかし、言葉は「言い換え」であってはなりません。似ている言葉こそ、淘汰されてもなお残っているものとして注目しなければいけないのです。

グルメ=食通、美食家だとして、なぜ「グルメ」という新しい概念が定着したのか。三省堂国語辞典の第七版ではこうなっていました。
①食通。
②おいしい料理。「ご当地─・─本〔=食べ歩きのガイドブック〕」

②の意味を記述した小型の国語辞典は管見の限り見当たりません。もし、食通であるとか、美食家であるとか「人」を指す言葉だと規定したならば、ご当地食通とか、ご当地美食家だって言えるはずです。ですがそれはできません。「グルメ」が使用されている用例を街に出て集めておかないとこの語釈は書けません。しかもこの用例は、グルメが料理そのものを指す証拠であると同時に、どういう単語と接続するのか、そしてどこに接続するのかという造語成分としての要素もしっかり表現しています。名詞の後ろにも前にも接続して一語となっていますよね。

三省堂国語辞典の語釈を読むたびに、iPadを持って写真を撮り、類語と比較して語釈をひねる飯間先生の姿が思い浮かびます。厳選された項目や、洗練された語釈のひとつひとつに、これまで述べた先生のパーソナリティと哲学がにじみ出ている、行間のある辞典だからです。

そして、初校で中心的役割を果たした先生が亡くなると改訂されなくなってしまう辞典も多いなか、かゆいところに手が届く三省堂国語辞典の哲学は、時代をこえていまもこうして継承されているという事実にも、毎度胸を熱くしています。

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