『Y先生と競馬』 先生と“賭け”めぐった日々

吉村 博光2017年03月09日 印刷向け表示
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Y先生と競馬
作者:坪松 博之
出版社:本の雑誌社
発売日:2017-01-24
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ミリオンセラーとなったビジネス書『嫌われる勇気』は、「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」と喝破し、いまやドラマになるほどの人気ぶりである。その対人関係の中でも最も得がたきは、深い尊敬と愛情の絆で結ばれた師弟関係ではなかろうか。私は本書を、その生きた教科書として読んだ。

敬愛する直木賞作家・山口瞳(Y先生)と著者が過ごした、夢のような日々。もとは作家と編集者という二人だが、その関係性をはるかに飛び越えている。その華麗さはまるで中山の大竹柵を飛越する馬たちのようだ。競馬という人類共通の記録を下敷きにユーモアたっぷりに追想した本書は、「単枠師弟」したくなるほど、傑出した読み応えがある。

Y先生はいつもの蛍光ペンとサインペン、天眼鏡を駆使して狙いを定めている。机に向かい合わせ、夏休みの宿題を一緒に片付けさせていただいているようで、なんだかとても楽しい。思わず山崎のハイボールも進んでしまう。  ~第4章「1993年東北優駿 上山競馬場」より

師とパドックを眺め、スタート前の高揚を共にし、最後の直線ではズボンのベルトが切れるほど興奮し、“行きつけの店”で反省会をする。本書で披露されるのは、1992年日本ダービーなどの当日と、それに前後する日々の記憶である。レースが好きで「本気」で予想した二人の競馬作法がわかるのが、読んでいて何より愉しい。

Y先生は、贔屓の専門誌「ダービーニュース」に他紙の気になる予想家の印を転記して、府中競馬場の客となる。ゴンドラ15号室からレースごとに必ずパドックに足を運び、馬の状態を加味し、販売窓口を転々としながら馬券を買う。

私が驚いたのは、パドックで馬を見る眼の確かさである。やはり一流作家は、全身感覚細胞なのだろうか。私には、到底真似できない。たとえばY先生は、ミホノブルボンが勝ったダービーのパドックで、16番人気のライスシャワー(2着)に目をつける。

ライスシャワーはなんと単勝110倍を超えている。16番人気、ちょっと無理か?こういう時はY先生に聴け、である。「ライスシャワーどうですか?」と訊ねるタイミングを探っていたら、なんとY先生が赤ペンで13に二重丸をつけているじゃないか。その様子に驚いているこちらに向いて「イイネエ」とおっしゃる。笑っている。決めた。  ~第1章「1992年日本ダービー 東京競馬場」より

この記述には、まるで自分もそこにいるような臨場感がある。競馬は記憶のスポーツだといわれる。著者は、JRA関係者の挨拶がいつも「毎度有ッ」にきこえると書いているが、これは一流のジョークだろう。20年以上経って、これだけ臨場感たっぷりに「予想」を回顧できる人並みはずれた記憶力があれば、このスポーツの勝利は疑いようがない。

そしてその力は同時に、年月をかけて磨かれた真珠のような輝きを、本書に与えている。読者は、直木賞作家・山口瞳の素顔と当時の競馬の様子を、身近なものとして感じることができるのだ。こんな本は、他にみたことがない。まるで、奇跡のような一冊なのである。

師弟愛とその周辺の人間模様。臨場感たっぷりのレースと予想の回顧。そして、本書の更なる読みどころは、思い出の場所や食に関する記述である。サントリーの広報誌で、開高健や山口瞳の担当編集者をつとめてきた著者の筆は、そこで一層の輝きを放つのだ。

この豆腐は木綿豆腐なのだが絹ごしのような滑らかさがある。温泉水仕込みだから、と仲居さんから説明を受ける。こなれた大豆の香りが鼻から抜け、口の中で旨味が溶けてゆく。この湯豆腐があれば海の幸も山の幸も要らないほどのご馳走である。  ~第3章「1993年日本ダービー 東京競馬場」より

ナリタタイシンが勝った皐月賞翌日、甲府湯村温泉・常盤ホテルでY先生と食した朝食を表現したくだりである。その後、ワインのテイスティングの会があったそうだが、ここからY先生が愛してやまないロアルドダールの紹介まで、一気に筆を進めている疾走感がじつに愉しい。

ライスシャワーで万馬券を当てた1992年日本ダービーの華やかさに始まり、行きつけの店と宿をはしごした京都祇園ウインズ行。玉こんにゃくに舌鼓を打つ、上山競馬場行。やがて、府中競馬場ゴンドラ15号室の仲間が、一人また一人といなくなっていく寂しさ。そんな中、最後の1995年のオークスは、慶応大学病院でのテレビ観戦となる。

その際、著者はウインズから病院に馬券デリバリーをする。その姿を2007年日本ダービーの時の自分に、重ねあわせた。病床から錦糸町まで、私は走った。それが、私に競馬を教えてくれた父の最後の馬券になった。まさか牝馬が勝つなんて、父子二代、思ってもみなかったけれど。

競馬は歴史だ。時の経過を楽しみながら、ウイスキーを片手にチビチビと読み進めていくのをお薦めしたい500ページである。その心地良いリズムの文体から、Y先生と著者の心情が、馥郁と身体に沁みてくる。豊かな人情の機微が伝わってくる。あ~いいなぁ。と私は何度も思った。

父の一周忌と3回忌の後、私は安田記念を観に2年連続で東京競馬場に向かった。期待どおり、2007年のダービー馬・ウォッカが連覇を果たした。私はパドックで、その馬体を眺めながら、父のことを想った。本書のあとがきは、こう括られている。

いつか、東京競馬場、パドックの畔で偶然お会いできることを楽しみにしております。

著者はこの言葉を、本書の読者に宛てているのか。それとも、当時のゴンドラ15号室の住人に宛てているのか。私には、Y先生に宛てているようにも、思えるのである。

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