『石つぶて 警視庁 二課刑事の残したもの』良き敗者の魂

首藤 淳哉2017年08月15日 印刷向け表示
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石つぶて 警視庁 二課刑事の残したもの
作者:清武 英利
出版社:講談社
発売日:2017-07-26
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「二課の花はサンズイ」と言われる。警視庁捜査二課は、汚職や詐欺、横領、背任、選挙違反などを摘発する部署だ。「サンズイ」は汚職の「汚」のサンズイに由来する隠語で、ゴンベン(詐欺)やギョウヨコ(業務上横領)などに比べ事件の格が一段上とされる。二課の刑事にとって、汚職事件の摘発は、命がけで成し遂げたい悲願である。

『石つぶて 警視庁二課刑事の残したもの』は、警視庁創設以来初めてといっていい巨大な事件に立ち向かった刑事たちの活躍を描くノンフィクション。「石つぶて」とは、小さな石ころを意味し、転じて価値のないもののたとえにも使われるが、本書に登場する無名の刑事たちの奮闘ぶりは、眩い輝きを放って読者の心に強い印象を残す。

警視庁創設以来、二課が手がけた事件の中で、もっとも複雑かつ巨大な事件。それは外務省内閣官房報償費流用事件、いわゆる「機密費」流用事件だ。

発端はささやかな内部告発だった。外務省に出入りする業者から、九州・沖縄サミットで使われる物品納入に関して、不正があるのではないかという情報がもたらされたのだ。それまで過去3回にわたって東京で開かれたサミットの予算額は最大でも15億円だったが、初の地方開催となる2000年の九州・沖縄サミットは、約815億円という桁外れの予算がついた。外務省の職員でさえ「使い切れない」というほどの予算である。当然のことながら水面下ではサミット特需を狙った業者の争奪戦が繰り広げられていた。

外務省ではサミットの裏方の一切をノンキャリア職員が取り仕切っていた。「ロジスティックス(logistics)」、通称「ロジ」と呼ばれる後方支援的な業務である。要人一行の出入国手続きから会場準備、車両や宿泊施設の手配など多岐に渡る業務はすべてノンキャリの領分だった。

サミットにまつわる物品納入疑惑となれば、サンズイの可能性がある。義憤に駆られた業者の告発は、ある政界のご意見番のもとにもたらされ、そこから捜査二課情報係主任の中才宗義という一匹狼の刑事のもとへと渡った。

二課というのは実に特殊な職場だ。殺人事件などの凶悪犯を追う捜査一課の捜査はチームワークが基本となるが、二課の場合は情報の秘匿が欠かせない。もう20年以上も前のことだが、警視庁詰めの記者だったことがある。捜査員が出払っているのが一目でわかる一課のフロアに比べ、二課は小部屋で仕切られたような複雑なつくりになっていたのをおぼえている。

汚職事件の捜査は因果関係の立証が難しい。事前に情報が漏れ、捜査対象に書類一枚でも処分されてしまえば、それまでの苦労が水泡に帰してしまうことだってあるのだ。だから二課の刑事たちは、同僚にさえ自らが追うヤマのことはしゃべらない。たったひとつの真実を突き止めるために、彼らは自らの周囲を嘘で塗り固めるのだ。

中才という刑事は上司にとっては実に扱いづらい部下だったらしい。捜査二課に残る伝説によれば、上には報告せずに内偵を進め、有力政治家の関係者を任意で聴取しようと車に乗せて警視庁の駐車場に滑り込もうとしたところで、政治家からの抗議を受け慌てふためく上層部に止められた、ということもあったらしい。頑固で強情だが抜群に仕事ができる。しかもネタ元と飲むコーヒー代や昼食代を自腹で支払う清潔さを持っていた。かつての上司はそんな中才を「仕事ができて卑しくない」と評している。

本書には中才のような一筋縄ではいかないノンキャリ刑事たちが何人も登場する。早い段階から中才と二人三脚で捜査にあたった情報係長の中島政司、後に特別捜査班を率いることになる第四知能犯第三係長の萩生田勝(彼が退官後に書いた『警視庁捜査二課』はドラマ化されるなど話題になった)、取り調べの名人として知られる第三係主任の鈴木敏。いずれも一癖も二癖もあるが、いったん事件に食らいついたら死んでも離さないという気概を持つ超一流の職人ぞろいだ。

調べを進めるなかで、中才はある時、「外務省の三悪人」という話を耳にする。その中に松尾克俊という人物がいた。九州・沖縄サミット準備事務局次長で、サミット関連の入札を実質的に仕切っているという。しかも松尾は、1993年から6年近くにわたって大臣官房総務課要人外国訪問支援室長という要職にあり、「外遊時に総理のいちばん近くで仕事をする男」と言われていた。要するに総理の外遊時のカネを差配できるポストである。しかも同じポストに4年以上留まることはありえない外務省で延々とその椅子にとどまっていることからも、松尾がノンキャリながらいかに省内で力を持っているかがうかがえた。

松尾を標的に定めてからの地を這うような捜査は本書の読みどころのひとつである。官舎のベランダに干されたTバックのパンティから愛人の存在を確信し、「捜査関係事項照会書」を手に外務省から近い銀行の口座をしらみつぶしに当たっていく。次第に「カネと女」に溺れた外務官僚の裏の顔が浮かび上がってくる。ここで著者は巧みに中才の家庭生活の描写を差し挟む。薄給のつましい暮らしぶりが強いコントラストをなして、松尾の豪奢な生活の異常さを際立たせる。

ようやく突き止めた松尾の定期預金口座には驚くことに億単位の残高があった。さらに普通預金口座に至っては、毎月のように数千万円単位の入金があった。だが中才は不審を抱く。当初あたりをつけていた事務機器の納入疑惑にしては金額が大きすぎるのである。

面白いのは、中才よりも早く国税当局の査察官が松尾の預金口座を把握していたことだ。ところがこの情報はその後、国税内部で死蔵されてしまう。その理由は、松尾の口座が個人のものにしては現金の入金額があまりに桁外れだったからだ。しかも振込みではなくほとんどが現金だったことから松尾がカネの出所を秘匿しようとしていることがうかがえた。そこから国税当局は、「外務省の表には出せないカネではないか」と気を回してしまったようなのだ。

結果的に松尾の尻尾を追い続けるのは捜査二課だけとなった。やがて総勢86名の特別捜査班が結成され、松尾のカネの解明にとりかかる。

本書の最大のヤマ場である松尾との攻防は、ぜひ本書をお読みいただきたい。当初、サンズイが疑われた事件は、捜査を進めるうちに想像をはるかに超えた姿を見せ始める。「機密費」という前代未聞の闇の領域へと刑事たちは踏み込んでいくことになるのだ。その入り口となるのが松尾だった。

裁判はとうに終わり、関係者も刑期を終えたいま、私たちはある程度の事件の概略を知っている。事件は結局、詐欺事件として立件された。デタラメな見積書を上げ、差額を着服するという荒っぽい手口で、松尾が内閣官房から引き出した内閣官房報償費は、11億円5700万円にのぼった。このうちの約9億8700万円を懐に入れていたとみられるが、立件できたのは約5億円分である。着服した金は十数頭もの競走馬の購入や女たちとの遊興などに費やされていた。松尾は3度結婚し、その間に少なくとも8人の女性と関係を持っていたとされる。参考人として聴取するなどした中央省庁の役人は735人にも達した。

だがたとえそうした外側の事実関係を知っていたとしても、本書の面白さは揺るがない。容疑事実が詐欺であることを知った松尾は、「だましていない」と激しく抵抗する。犯罪に手を染めていながら、公僕としての強烈なプライドもあるのだ。人の心とは、かくも複雑なものなのかと思い知らされる。そこに刑事たちも全身全霊でぶつかっていく。こうしたギリギリの人間ドラマに心を鷲掴みにされるはずだ。

清武英利は、巨大組織の論理に抗って生きる人々を描かせたら当代一の書き手である。彼が取り上げるのはきまって「人生の貧乏くじ」を引いてしまったような人々だ。本書で描かれる刑事たちのその後も例外ではない。あれだけの事件をモノにしたにもかかわらず、皆どこか敗北感を抱えて生きている。それはほったらかしにしていた家族への贖罪の思いであったり、長年奉職した組織に対する失望であったりする。

だが敗者を描きながら、清武作品の読後感はいつも清々しい。おそらくそれは、清武が描こうとしているのが「グッド・ルーザー(good loser)」だからではないか。「良き敗者」――負けても潔く前を向く人。敗れてもなお清廉さを失わない人物。

近年、警視庁のサンズイの摘発数は激減している。2014年にはとうとう贈収賄事件の摘発ゼロという不名誉な記録もつくってしまった。手間のかかる振り込め詐欺の捜査に人員を割かねばならない事情もあるかもしれないが、本書は中才のような仕事のできる「はみだし刑事」を警察組織が抱えきれなくなったことも背景にあるのではないかと示唆している。ガバナンスの強化は、裏を返せば失敗を恐れる風潮が組織にまん延することでもある。上層部がどこかで腹をくくらなければ、サンズイの摘発などできるわけがない。

だが「グッド・ルーザー」の魂はひっそりと受け継がれていた。本書のクライマックスは、退職後の中才のもとにもたらされたある吉報である。それは目をかけてきた親子ほども年の離れた女性刑事がようやく成し遂げた大仕事だった。無名の刑事の矜持が次世代にたしかに受け継がれていたことを知ったとき、あなたもきっと胸が熱くなるのを押さえられなくなるはずだ。

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