『やぶれかぶれ青春記・大阪万博奮闘記』 文庫解説 by 加藤 秀俊

新潮文庫2018年09月30日 印刷向け表示
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やぶれかぶれ青春記・大阪万博奮闘記 (新潮文庫 こ 8-12)
作者:小松 左京
出版社:新潮社
発売日:2018-09-28
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わたしが作家・小松左京の名前を知ったのは、1964年のことである。

京都大学人文科学研究所(人文研)の助手として10年がすぎ、前年から1年間、アメリカのアイオワ州グリネル大学で交換教授として教え、帰国したばかりのころであった。アメリカ生活は3度目であったが、まるまる一年も日本を離れたのは初めてで、帰国したときには一種の精神の空白状態。それを埋めるべく、誰かれつかまえては、この間に読むべき本は出たか、必読書は何かとたずねてまわった。すると助手仲間の多田道太郎、樋口謹一、山田稔の各氏や謹厳な高橋和巳までもが異口同音に、小松左京という新進作家の長編小説『日本アパッチ族』こそ必読書であるという。

さっそく買い求めて読んでみたが、たしかにおもしろい。人間が鉄を食うという発想が奇抜だし、その設定を押しとおす腕力と図々しさ。山田稔が山田捻(ひねる)という名前で出てきたりもする。抱腹絶倒するとともに、こんなにかなしい小説を書いた小松左京という人物につよく惹かれた。

それからほどなくして、わたしは実際に小松さんと出会い、急速に交遊を深めていくことになる。残念ながら実際の出会いがどのような場であったかは思い出せないのだが、ともかく意気投合するとはこういうことをいうのだろう。京都の祇園や大阪のホテルで、ほぼ毎日のように会った。わたしが1930年生まれ、小松さんは1931年の早生まれで学年は同じ。ともに落語好きで、ばかばかしい話やファンタジーを楽しむという点で共通していた。ふたりで話していると話題があちこちにひろがっていき、尽きることがなかった。

新製品や新しもの好きというのも似ていた。わたしが自分の研究室に電卓のはしりともいうべき東芝トスカルを買ったときのこと。卓上の大きな電子計算機を興味津々で見ながら、小松さんが「これで何か計算でけへんやろうか」という。そのころ人文研ではうどんやそばをとって、食べながら研究していたので、そこらじゅう丼(どんぶり)だらけ。それで、丼を見ながらおもしろいことを思いついた。そばの長さを20センチとして、ひとつの丼のなかにそばが200本入っていると仮定する。そうすると丼ひとつのそばの長さは40メートルになる。ではこのそばが月に到達するには、何杯食ったらいいのか。それをふたりで一所懸命に計算した。それがわが電卓の使い初めである。

この話には後日談がある。わたしが東芝トスカルを買ったのが1965年で、値段は36万円であったが、しばらくすると今度はキヤノン・キヤノーラという計算機が出て、桁は多いうえに値段は23万円。小松さんから「加藤さんはおっちょこちょいやな。もう少し待てば、こんなに安くで買えたのに」といわれたのをおぼえている。ちなみに小松さんは一九七一年にキヤノン・キヤノーラを14万円で買い、それで日本列島の質量を計算しながら『日本沈没』を書いた。

小松さんと知り合ったときの正確な記憶はないが、おそらく『放送朝日』を通じてであろうと思われる。小松さんも書いているとおり、『放送朝日』は朝日放送のPR誌という枠を超えて、ユニークで存在感のある雑誌として異彩を放っていた。

小松さんは1963年から同誌でSFルポ「エリアを行く」の連載を始めているが、わたしと同誌との関係はもう少しふるい。1959年の放送法改正にともなって、各局とも放送番組審議会の設置が義務付けられることになった。そのときに朝日放送から審議会の若手委員にと、梅棹忠夫さんとわたしに声がかかったのである。そこから朝日放送及び『放送朝日』とのつながりができていく。

梅棹さんは、わたしたちより10歳年長であるが、兄貴分というよりは、わたしにとっては先生であり、あこがれの存在であった。もともと母校一橋大学の恩師・南博先生が「思想の科学研究会」の同人であった関係で、わたしも学生時代から鶴見俊輔さんらと交遊があった。鶴見さんはわたしが人文研に入るのと入れかわりに東京工大に移られたが、その鶴見さんからも「ぜひ梅棹さんと会いなさい」とすすめられていた。わたしは『思想の科学』(1954年5月号)に梅棹さんが書かれた「アマチュア思想家宣言」に衝撃を受けた。プラグマティックな機能主義に貫かれ、いわゆる「思想」を痛烈に批判する姿勢がかがやいており、それにもまして平易なその文体に惹かれた。

北白川の梅棹邸には、わたしをふくめていろいろな人間が集まった。酒を飲み、深夜までよく議論したものである。梅棹さんはしばしば「学問は最高の道楽である」と説いた。当時の日本の知的環境からすると、これは特筆すべきことであった。知識人の多くが、多かれ少なかれ政治的なかかわりへの義務感をもつような時代風潮のなかで、京都でわたしが属していたグループは醒めた自由な精神をもち、学問を楽しむという姿勢が根幹にあった。

小松さんも書いているように、梅棹さんは1956年には岩波新書から『モゴール族探検記』を出し、57年には『中央公論』に「文明の生態史観序説」を発表、すでに論壇の寵児となっていた。その梅棹さんに、『放送朝日』は今度は「情報産業論」を書かせたわけである。それをプロデュースしたのが編集長のN氏こと仁木哲さん。仁木さんは勘がするどくて企画力があり、仕事のできる人であったが、小松さんにとっては旧制三高時代の先輩でもあった。京大吉田寮の主みたいな人で、後輩としては頭があがらなかったようだ。

わたしがアイオワにいた時期に梅棹さんと小松さんにどのような交遊があったかはわからないが、いずれにせよ、1964年に梅棹、小松、加藤の3人で頻繁に顔をあわせるようになったのはたしかである。梅棹さんもまた、ばかな話が好きで、3人揃うと話題はいっそうひろがり、あまりのおかしさに手を叩いて喜んだりしたものである。いまにして思えば、「万国博を考える会」に向けた準備があったからこそ、集まる機会もより増えていたのかもしれない。

梅棹さんが大阪市立大から人文研助教授に就任した65年以降は、文字どおり毎日顔をあわせていた。小松さんは勝手に「人文研院外団」を名乗り、フリーパス。むしろ夜の祇園では小松さんが主役だったかもしれない。桑原武夫先生、貝塚茂樹先生、今西錦司先生らにかわいがってもらい、祇園でもご馳走になった。小松さんと私とで飲みに行くと、いつも貝塚先生のボトルが自動的に出てきた。大晦日にどこにも行くところがなくて、梅棹さんと小松さんと祇園で語り明かしたこともあった。

じつは小松さんが大阪万博後にこのような顛末記を書いていたとは知らず、今回はじめて拝読した。当時の雰囲気がよく書かれていて、祇園に集まった最初の会合で西日が強く、暑かった記憶がまざまざと甦った。小松さんの文章に触発されてわたしもいくつか思い出したことがある。

「万国博を考える会」発足のきっかけになった「次は大阪で国際博か?」という新聞記事は、おそらく当時の通産省の池口小太郎、のちの堺屋太一が観測気球として書かせたものだろう。実際それに小松さんが飛びつき、梅棹、加藤、仁木と4人で準備が始まった。これに川喜田二郎、多田道太郎、鎌倉昇の三人が加わって、「考える会」はスタートした。

一方、東京でも敏感な人たちが動きはじめた。それが丹下健三さんのグループである。華道の勅使河原蒼風、グラフィックデザインの亀倉雄策、造形の岡本太郎、このあたりはもともとつながりのある人たちだ。そして丹下さんの下には浅田孝、川添登のふたりを中心とした「メタボリズム・グループ」、すなわち建築家の菊竹清訓、槇文彦、黒川紀章、デザイナーの栄久庵憲司、粟津潔といった錚々たる顔ぶれもいた。いずれも当時、40代にさしかかろうかという年齢で、万博においては彼らが実際の設計やデザインを手がけることになる。

しかし京都で「万国博を考える会」なんてやっているのに、建築家は東京ばかりというのでは格好がつかない。京大にも西山夘三先生という復興住宅などの立派な仕事をされた方がおられる。丹下さんのような大有名人ではないけれども、西山さんを無視する形では進められないということで、丹下さんと西山さんを引き合わせて、一種の手打ち式のようなことも行われた。そのお膳立てをしたのが京大の上田篤さんであった。

「考える会」はあくまで民間有志の団体であり、国の方では財団法人日本万国博覧会協会という組織ができあがり、準備が進んでいく。その両者の関係は微妙なものがあった。結果的に万博協会側が「考える会」を上手に取り込んでいくわけだが、両者の共存が実現できたのは初代事務総長を務めた新井真一さんの功績である。新井さんは通産官僚であったが、大変な人格者で、通産からはまっとうな理念は出てこないと踏み、「考える会」に協力を求めてこられたのだ。途中で交替されたけれども、大阪万博の最初の土台をつくったのは新井さんだといっても過言ではない。

「考える会」サイドで理念の重要さをいちばんわかっていたのは、やはり梅棹さんであった。単に万博をやるというだけでは世界に顔向けできない。「趣意書のない催し物はないやろ」と梅棹さんが言い、理念や目的を言葉にする作業をはじめた。

同時に、万博協会でも元東大総長の茅誠司氏を委員長に、桑原先生を副委員長にしたテーマ作成委員会が発足していたが、じつはこれも梅棹さんの知恵。というよりも、京大にはもともと若い人たちが何か物事を進めるときに、「シャッポを探せ」という伝統があって、若い連中がおもしろそうなことを発案すると、それを実現するために誰か上に立つ人間を必ず探すのである。万博のテーマづくりに際して茅、桑原両先生を選んだのは、茅先生は日本学術会議の会長を長らく務められていたし、桑原先生はちょうど副会長の職に就かれていたからである。このお二人をおさえておけば、学界から文句が出る心配はまずない。桑原先生は最初は万博にはほとんど興味をお持ちではなかったのだが、わたしたち3人で頼み込んで、「お前たちがそう言うなら」と引き受けてくださった。逆にそうなったからこそ、わたしたちも桑原先生のブレーンのようなかたちで動かざるを得なくなった。当時は3人で会えば万博のことしか話していなかったようなおぼえがある。

理念やテーマづくりが一段落した66年、京都の旅行代理店の企画で、企業の人を募って「万国博学習の旅」ツアーが行われた。それにわれわれ3人が現地講師として同行することになった。ちょうど建設中だったモントリオール博の見学がメインだったが、さらにニューヨーク、メキシコシティとまわった。あのツアーは楽しい旅で、ばかなエピソードもいろいろある。

ニューヨーク・ヒルトンに泊まったときのこと。予算の関係で二部屋しかとれず、3日に1度1人部屋でと言われたが、結局3人で夜な夜な酒盛りをして、床にごろ寝という仕儀になった。ウィスキーの水割りばかり飲んでいたが、バスルームのところに製氷機があって、なかなか便利だった。ところが小松さんがその製氷機をいじって壊してしまって、氷が止まらなくなってしまった。どんどん出てくるから、梅棹さんと2人でバスタブにお湯をためて、必死で氷を運んだ。
だいたい、いつも何かをしでかすのは小松さんで、帰りに寄ったハワイでも、ムスタングを借りてわたしが運転したら、小松さんが何やらいじって、幌が走行中に上がってしまったり……。忙中におとずれた、なんとも愉快な珍道中であった。

小松さんの文章を読むと、あの視察旅行の前まで、サブテーマ委員会で役人相手に大立ち回りをした様子がうかがえる。サブテーマ委員会は、テーマを実際にどのように展示に結びつけるかを議論する場であり、枢要なポジションだ。小松さんは触れていないけれども、ここで一番焦点になったのは、「テーマ館」をめぐる議論であった。われわれは当然ながらテーマ館が必要だと考えていたが、通産省サイドはそもそも想定していない。小松さんは、なぜテーマ館が必要なのか、大演説をぶった。ここで通産側の担当者である池口小太郎と微妙な関係が生まれる。もちろん表立って喧嘩はしないけれども、小松さんは相当神経をつかっていたと思う。

結局、テーマ館を作ることになり、その展示プロデューサーを岡本太郎さんが引き受けた。その条件として、サブテーマ委員の誰かが協力するということで、梅棹さんが小松さんに電話をかけてきた、というくだりがある。このあたりは、いかにも梅棹さんらしい。

梅棹さんは先々まで見通して手を打つ人だった。洞察力があるといえば聞こえはいいが、要するにたいへんな「悪党」であった。岡本さんに小松さんを付けるという人事は秀逸だし、万博会場の跡地に国立民族学博物館をつくるという構想も、梅棹さんはかなり早い段階で思い描いていたふしがある。世界中に若い研究者を派遣して「お面」を集めてくるというのは、まさに万博後をにらんだ布石だろう。

岡本太郎さんといえば、あの太陽の塔の元になったデザインに、わたしは心当たりがある。先にも触れたが、まだ人文研に入る前、わたしは東京で『思想の科学』の編集にかかわっていたことがある。同誌は当初、先駆社刊だったが、財政的な理由から刊行が難しくなり、一時的に建民社から『芽』という誌名で刊行された時期があった。その雑誌の表紙絵を岡本さんが描いていたのである。それはタケノコの芽を描いたもので、太陽の塔の原像のような絵であった。鶴見俊輔さんに同道してわたしもその原稿依頼にうかがっており、今にして思えば不思議な縁である。

「万国博を考える会」と並行して、あの頃はさまざまな人的つながりが生まれていった。わたしにとって大きかったのは、林雄二郎さん、川添登さんという二人の素晴らしい友人を得たことである。林さんは当時、経済企画庁の経済研究所所長で、20年後の日本の見取り図を「20年後の豊かな日本への一つのビジョン」という報告書にまとめられたところであった。その林さんの報告書について議論する座談会を総合雑誌『展望』が66年新年号で企画し、わたしも呼ばれたのだ。そこに川添さんも出席していた。川添さんはメタボリズム・グループの旗手として存じ上げていたし、桑原先生が「同時代の生んだもっとも優れた芸術批評家」と評されていたので、ぜひ話してみたいと思っていた。偶然の機会であったが、この座談会をきっかけに、林、川添両氏と親しくなっていった。

わたしとしては、「20年後の日本」をめぐってつきあいが始まった二人を、京都の二人に引き合わせたいと思った。梅棹さんも小松さんも未来について語り始めたら止まらないだろう。そんなときに、エッソ・スタンダード石油のPR誌『Energy』の編集長・高田宏さんから、一冊まるごと「未来」について特集したいという申し出があった。かくして、66年秋、比叡山ホテルに梅棹、小松、林、川添、加藤の5人がそろった。そのような議論合宿を何回か行い、特集号「未来学の提唱」(67年4月号)ができあがった。未来学という言葉がつくられ、五人のメンバーで「未来学研究会」が結成された。

この5人の会は、いちおうちゃんと研究会を行いつつ、お互いに忙しくなってもたまには集まろうということで、鳥羽の某ホテルに集まるようになった。ホテルのアワビやサザエが美味しいというので、会は「貝食う会」と名付けられた。

そういえば、この頃、川添、小松、加藤に川喜田二郎さんが加わって、「KKKK団」という結びつきもあった。何のことはない、4人の頭文字にちなんだもじりであるが、川喜田さんからはフィールド・ワークの哲学を学びながら、4人で人類の未来について語り合った。

いずれにしても、わたしと小松さんは、あの頃ほんとうによく一緒に過ごした。「貝食う会」のメンバーの結束はとりわけ強く、どこかで一蓮托生という仲間意識を、お互い抱き始めていたような気がする。

未来学研究会は、やがて日本未来学会の創設(68年7月)、国際未来学会・京都会議の開催(70年4月)へと大きく動いていく。わたしは未来学会の事務局長を仰せつかり、万博と並行して忙殺された。さらに69年から教育学部助教授となっていたため、京大紛争に直面することになる。全共闘の諸君と毎日、団体交渉ばかりやっていた。万博と未来学会と京大紛争を、どうやって同時に乗り切っていたのか、自分でもさっぱりわからない。

しかしさすがに大学紛争にはうんざりして、70年3月、わたしは京都大学を辞めた。小松さんは小松さんで、万博のテーマ館サブプロデューサーとして東奔西走していたし、国際SFシンポジウムの実行委員長もやっていたはずだ。お互いほっとしたり、一段落する間もない。ひたすら走り抜けた日々であった。

わたしは幸いにも、京大を辞めたタイミングでハワイ大学東西文化センターのシニア・フェロー(高等研究員)として声がかかり、ハワイへ移った。小松さんはやがて『日本沈没』でベストセラー作家となり、わたしは学習院大学に職を得て日本に戻った。それぞれの道を歩いていくわけだが、その後も『学問の世界──碩学に聞く』という鼎談集を作ったり、いろいろなことを一緒にやってきた。小松さんの秘書も、もとはといえばわたしの公的秘書を務めていた女性である。その任期がおわったとたんに小松さんに連れて行かれてしまった。

小松さんとの思い出は尽きないけれども、忘れられないのは71年のハワイでのできごとである。わたしがハワイにいるならということで、小松さんは家族連れで遊びにきた。二人でワイキキ沖をゴムボートで遊んでホテルに戻ると、日本からメッセージが入っていた。

どうやら桂米朝師匠からの電話だったようで、コールバックすると、高橋和巳が亡くなったと告げられた。そのときの小松さんの顔は、ふだん見たこともない顔だった。何があっても取り乱すような人ではないのだが、このときばかりは、ひどくショックを受けて、まさに顔面蒼白という表情であった。

小松さんと高橋和巳とは、ほんとうに特別な関係だったのだと思う。まったく作風は違うけれども、心をゆるせる文学仲間として、おたがいを必要としていた。

そのときわたしは、自分の知らない、作家・小松左京の姿を見たような気がした。

(2018年8月、社会学者 談)

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