『占領史追跡: ニューズウィーク東京支局長パケナム記者の諜報日記』 文庫解説 by 佐藤 優

新潮文庫2013年08月16日 印刷向け表示
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本書は、連合国による日本占領期に米高級誌『ニューズウィーク』東京支局長をつとめた神戸生まれの英国人コンプトン・パケナム(1893~1957)の日記と手紙を発掘した青木冨貴子氏による戦後史の闇を読み解いた優れたノンフィクション作品だ。

時代の転換期(同時に混乱期でもある)には、山師、ハッタリ屋が政治的に重要な役割を果たすことがある。私自身は、ソ連崩壊前後にそのような人たちの姿をモスクワでたくさん目撃した。パケナムは『ニューズウィーク』東京支局長という「表の顔」を持っていたが、同時に戦後の混乱期に暗躍した怪しげな外国人の1人でもある。

パケナムは、吉田茂、鳩山一郎、岸信介などの政治家のみならず、宮内府式部官長の松平康昌とも個人的信頼関係を構築し、米国の反共政策に日本を組み込むロビー活動を積極的に展開し、成功した。パケナムは、鳩山に賭けた。公職追放中の鳩山を、訪日したジョン・フォスター・ダレス米国務長官顧問と、1951年2月6日に密かに会わせる。

〈さらに九日の日記には、吉田の秘書で上手な英語を話す外務省の寺岡が突然訪ねてきて、お礼をいった後、こう訊いてきたとある。

《「なぜ、そんなアレンジをしたのですか?」》

パケナムがなぜダレスに鳩山を引き合わせたのかという、素朴で重要な疑問である。

この問いかけにたいするパケナムの答えは以下のとおり。

《講和条約後の吉田引退ののち、鳩山が首相になるかもしれませんからね、と私がカマをかけると。

「もちろん!」と寺岡は即答した》 

パケナムはダレスと鳩山の会談についてつづけ、

《ダレスが再び来日するかどうかはともかく、もっとも重要な滞在期間中に次期首相と思われる人物に会っておくことは、鳩山の顔をたて、ワシントンからきた講和の特使を満足させた。軍事占領の初期の基本方針というたわごとを超えたできごとになったのである》〉(217頁)

本書から、鳩山をはじめとする日本の政治エリートが自発的にパケナムに秘密情報を提供していたことがよくわかる。パケナムが日記を残してくれたおかげで、われわれは日米交渉の舞台裏について知ることができる。例えば1951年2月12日に次期首相候補の鳩山がパケナムを呼んで流した吉田首相とジョン・フォスター・ダレス米国務長官顧問との会談に関する情報だ。パケナムの日記にはこんなことが書かれている。

《1.外務省では、ダレス・吉田会談の成り行きに戦慄した。日本人によると、吉田の流暢なはずの英語は50パーセントがはったりで、わかったような顔をしているだけ。途方もない虚勢というのだ。社会的に彼は娘(ミセス麻生〔麻生元首相の母、麻生和子〕)に頼り、あとで彼女に説明してもらうのだが、もちろん、今回、彼女は同席しなかった。吉田はまた会合でメモもつけない。そのうえ、アメリカの外交官は政治的特殊用語を短くして新しい言葉につくりかえ、それをまじえて話すので、日本人にはなかなかついていけない。しかし、吉田だけはそんな問題もない様子なので、まわりは彼がどれだけ理解しているか不審に思うのであった。

2.日本側の解釈。最初の会談のとき、再軍備が話題にのぼった。吉田は再軍備などできないと答えた。その前、国会の野党への答弁で再武装には反対である、と宣言したからである。会談の途中、ダレスと吉田はいっしょにマッカーサーのところへ行った。おそらくマッカーサーはいつもの響きわたる雄弁さで吉田に〔ダレスの提案の一部を〕受け入れさせたにちがいない。その後の会談で吉田はマッカーサーの言葉をそのままダレスにかえして承諾したという》

ダレスが寛大な条約案と引き換えに、どれほどの再軍備実行を求めたかは鳩山の耳に届きようもなかった。しかし、ここに記録された鳩山の集めた情報は、かなり正確に当日の状況を語っている〉(218~219頁)。

わが国では、今日に至るまで、吉田がマッカーサーと連携して、ダレスの再軍備要求を拒否し、国防負担は日米安全保障条約によって米国に担わせ、日本は経済活動に専心できるサンフランシスコ平和(講和)条約体制が構築されたという「吉田神話」がある。青木氏は、パケナムの日記の新情報と米国の公文書と吉田の著書『世界と日本』の内容を精査することによって、『吉田神話』を脱構築する。1951年1月29日のダレスとの会談に吉田は通訳や外務官僚を交えずに1人で臨んでいる。

〈パケナム日記にある鳩山の情報によると、ダレスと吉田はマッカーサーのところへ行き、マッカーサーは吉田にダレスの提案の一部を受け入れさせたというのである。

この三者会談は公式の記録がないために当事者以外には知らされていないが、吉田はダレスの再軍備要求をあくまでつっぱねたものの、妥協策として保安隊とこれを管理する国家保安省のような組織設置構想を提案したのではないか。マッカーサーも、日本の経済力で大型地上軍創設は無理であるといって吉田の肩をもった。そのため、シーボルドが書いているように、

「ダレスが非常にくやしがった」
という筋書きであったことが理解できる。

吉田はこのときの会談でも、意表をつく発言をしたり、曖昧模糊とした言葉を繰り返し、ダレスを苛立たせた。同席した米高官のひとりは、これが吉田流の交渉戦術だとみているが、別の高官は吉田の準備不足をうったえた〉(220~221頁)

吉田の英語力の低さ、準備不足が、結果として、軽武装の戦後日本を作り出したのである。こういうところに歴史の面白さがある。

青木氏は、パケナムという自己顕示欲が強いが、利他的なところもあり、高等教育は受けていないが知的能力の高い人間の複雑な内面を解明している。パケナムが自ら語った経歴には、出生地、父の名と職業、学歴などいくつもの嘘がある。青木氏は丹念な取材で真実の経歴を明らかにする。青木氏が探し当てた多磨霊園のパケナムの墓には、〈DSO(殊勲賞) MC(戦功十字章)/1893年5月11日、神戸生まれ 1957年8月18日、東京にて死亡〉(336頁)と記されていた。

パケナムが履歴を詐称した動機について青木氏はこう推定する。

〈それにしても、なぜ、パケナムは神戸生まれであることを公表しなかったのか。神戸生まれというと、父は英国大使館つき駐在海軍武官、ということにした彼の経歴に疑いがもたれると案じたからであろうか。九歳のときに英国へ送られ、ビクトリア女王の小姓として仕え、有名な私立全寮制男子校のハロースクールから、王立陸軍士官学校サンドハーストでまなび、オックスフォード大学へ進んだと自称する輝かしい経歴にほころびが生じてしまうと思ったのであろうか。

実際のトマス・コンプトン・パケナムは、神戸でH・ルカス商会につとめるグスタバス・コノリー・パケナムの長男に生まれ、中国の煙台市にある寄宿学校チーフー・スクールへ送られ、10歳から16歳まで教育を受けたことが、この3年間のリサーチではじめて明らかになったのである〉(338頁)

パケナムは、大学教育を受けていない。しかし、オックスフォード大学大学院で博士号を取得したと経歴を詐称し、米国の大学で教鞭を執るようになった。これほど大胆な経歴詐称が可能だったのだから、当時の米国のアカデミズムはおおらかだったのだ。また、パケナムが高等教育を受けていないことが露見せず、複数の大学で教鞭を執った後に米国の一流マスメディアで活躍できるようになった最大の理由は、同人に高度な知的能力があったからだ。青木氏は、〈階級によって身分のはっきりした英国人ならではの人知れぬ苦悶であったかもしれない〉(290~291頁)という見方を示す。私もそう思う。パケナムが黒衣に徹したのも、公職に就くと経歴詐称が表に出ることを恐れたという要因もあるのだろう。

ところで、パケナムの日記で、私のアンテナが強く震えた箇所がある。1951年3月4日の日記に、《参謀第二部〔G2〕とともに心理戦(サイコロジカル・ウォーフェア)の材料をアップデートする》(343頁)と記されている。参謀第二部は、GHQのインテリジェンス担当部局で、キャノン機関、有末機関などがさまざまな謀略活動に従事した。心理戦とは、謀略・宣伝工作のことだ。この日記に記されていない、インテリジェンスに絡む別の顔をパケナムは持っていたはずだ。

(2013年6月、作家・元外務省主任分析官 佐藤 優)

 
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