『代替医療解剖』文庫版訳者あとがき by 青木薫

新潮文庫2013年08月28日 印刷向け表示
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本稿は、2013年8月に文庫化された『代替医療解剖』の訳者あとがきです。2010年1月に刊行された単行本『代替医療のトリック』の翻訳者あとがきはこちらから(※編集部)

代替医療解剖 (新潮文庫)
作者:サイモン シン
出版社:新潮社
発売日:2013-08-28
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この文庫版のための訳者あとがきでは、本書の単行本が刊行されてからこれまでに起こった代替医療関係の出来事のうち、とくに興味深いと思われるものを2つほど取り上げてご紹介したい。 

まず1つ目は、本書の著者の1人であるサイモン・シンが、英国カイロプラクティック協会に名誉毀損で訴えられた一件である。2008年、本書の原書がイギリスで刊行されるのに合わせ、シンは『ガーディアン』紙のウェブ版のコラムで、子どもの腹痛や喘息などを治療できるとして、子どもに施術しているカイロプラクターがいると述べた。 

英国カイロプラクティック協会はそれに対し、シンの書き振りは、まるで協会の指導部がそれと知りつつインチキ療法を許しているかのように読め、事実上、協会の指導部を不当にも非難するものだとして法廷に訴えたのである。

イギリスでは、こうした場合に名誉毀損で訴えられると、まず勝てないという状況があった。訴えられた科学者や医師やジャーナリストは、裁判のために多大な時間とエネルギーを取られるばかりか、その費用も負担しなければならない。それを逆手にとって、国際的な団体や企業などが、事実上の口封じとして名誉毀損に訴えるときには、わざわざイギリスを裁判地に選ぶという、「名誉毀損ツーリズム」という現象まで起こっており、国際問題にもなっていた。

国連の人権委員会も、イギリスの名誉毀損法は、「公共の利益にかかわる問題についての報道を妨げ、名誉毀損ツーリズムとして知られる現象などを引き起こし、研究者やジャーナリストに仕事の公表をためらわさせている」として警告するほどだった。

サイモン・シンが訴えられたケースでも、予想された通り、1審では英国カイロプラクティック協会の主張が認められ、シンが敗北した。しかしその判決を受けて、科学者やジャーナリストばかりか、著名な司会者やコメディアンなど芸能人までもが、シンの応援に立ち上がった。支援のためにさまざまな活動が行われたようだが、そのひとつとして、科学的根拠がないままに治療効果を謳い、子どもに施術しているカイロプラクターを見つけだし、告発するという摘発キャンペーンがあった。 

カイロプラクターの中には、腹痛、喘息、泣きぐずりのほかにも、関節炎から学習障害まで、さまざまな症状を治せると称して子どもに施術する者がいたのである。 

この摘発キャンペーンに対処すべく、英国内の有力なカイロプラクティック協会のひとつであるマクティモニー・カイロプラクティック協会は、所属する会員800名にメールを送り、「ウェブサイトで治療を宣伝している者は、サイトを閉鎖すること。協会作成のパンフレット、および独自に作成したパンフレットで、ムチ打ち症や、腹痛を始めとする子どもの病気を治療すると述べたものを撤去し、追って通達するまで使わないこと」との指示を出したが、そのメールもみごとにリークされてしまった。 

最終的には、英国のカイロプラクターのうち、なんと4人に1人が取り調べの対象になるという事態に至る。

結局、控訴審ではシンの主張が認められ、その後、カイロプラクティック協会が名誉毀損の訴えを取り下げたことにより、この裁判はシンの勝利に終わった。裁判所はこれにより、科学上の問題は、煩瑣な法廷論争によってではなく、科学論争によって決着されるべきであるとの考えを示したといえよう。 

サイモン・シンは、裁判に勝利したとはいえ、ブログ記事の中のたかだか数ワードの表現を擁護するために、2年の歳月と20万ポンド(約3000万円)の支出を強いられることになった。このシンのケースと、前年にイギリスの心臓外科医ピーター・ウィルムズハーストが、アメリカの医療機器製造会社に名誉毀損で訴えられたケースとが大きな契機となって、名誉毀損法の改正を求める声が高まった。改正への道のりは容易ならざるものに見えたが、この4月、イギリス政府がそれまでの態度を一転させ、部分的に改正案を受け入れる姿勢を示した。そして、「大企業は、問題とされる記述の文言により、甚大な経済的損失を被ったこと、または損失が見込まれることを示さないかぎり、名誉毀損に訴えることができない」という条文案を提出し、議会はそれを通過させたのである。

この修正条項は、明らかに不十分な内容ではあるにせよ、これまでは企業や団体が名誉毀損法に訴えることをためらわせるようなハードルは何も設定されていなかったことを思えば、大きな一歩といえるだろう。 

もうひとつ、この間に起こったこととして特筆に値するのは、プラセボ効果の研究が大きく進展しはじめたことだろう(参考資料、THE NEW YORKER, Dec. 12. 2011, Harvard Magazine, 2013. 01)。その動きの中心にいるのが、テッド・カプチャクというアメリカの研究者である。カプチャクはもともと鍼を学び、ボストンで治療院を開業して、その人柄とよく効く治療で評判をとった。しかしやがて彼は、首をかしげるような現象に気づく。まだ鍼を打ってもいないうちから、患者の症状が軽快してしまうということが、しばしば起こったのである。当時のカプチャクは、鍼の有効性を微塵も疑っていなかったが、そこには何か別のプロセスが働いていると考えざるをえなくなった。

意を決したカプチャクは、科学的なアプローチを精力的に学びはじめ、研究者としてメキメキと頭角を現した。現在は、ハーバード・メディカルスクールの教授にして、ベス・イスラエル・ディーコネス・メディカルセンターに本部を置くプラセボ研究プログラムHarvard-wide Program in Placebo Studies and the Therapautic Encounter(PiPS)の中心人物となっている。PiPSは、プラセボ効果の研究だけに的を絞った、世界的にも例を見ない学際的な研究機関である。今やプラセボ効果は、臨床医学、心理学、人類学、経済学、神経科学など、幅広い分野から研究成果が流れ込む、活発な分野となっているのである。 

プラセボ効果への関心が高まるにつれて、基本的な研究テーマとして次の3つが浮かび上がってきた。第1に、プラセボ効果の生理学的基礎を明らかにすること。第2に、プラセボ効果が起こる条件と、その限界を明らかにすること。第3に、プラセボの薬や治療法によく反応する人としない人を、あらかじめ識別することができるかどうかを明らかにすることである。

第1のテーマ、すなわちプラセボ反応の生理学的基礎については、1970年代から、脳内で働く神経伝達物質、たとえば天然の鎮痛剤と言われるエンドルフィンを働かないようにさせると、プラセボ反応が起こらなくなることなどが知られていた。これは、プラセボ反応が、実際に脳内の神経伝達物質と結びついているということ、したがって、偽薬や偽の治療でも、脳内の化学物質の動きに影響を及ぼしうることをほのめかしていた。今日では、エンドルフィンの他にも、快感や満足感を引き起こすドーパミンが、プラセボの治療により脳内で放出される場合があることや、アヘンやモルヒネのような鎮痛効果のある物質と、まったく同じ神経経路を使って作用する物質が、プラセボ効果にひと役演じていることなどが確かめられている。 

カプチャクのチームは、PETやfMRIといった生体イメージング・テクノロジーを駆使して、プラセボ反応が起こっているとき、被験者の脳のどんな領域が活動するのかも視覚的に捉えることに成功した。

たとえば、偽の治療を受けた被験者の4分の1ほどに、頭痛、吐き気、不眠、疲労感が見られることが知られており、これを「ノセボ効果」という。プラセボは、ラテン語で「私は喜ばせるであろう」という意味であるのに対し、ノセボは同じくラテン語で、「私は害をなすであろう」という意味である。ノセボ効果は、人によっては気の毒なほど強く出ることもあるという。おそらく、なんにせよ治療には副作用がつきものだという不安があるせいで、副作用としてありがちな反応を起こしてしまうのではないかと考えられているようだ。このノセボ効果が起こっているときには、脳の中でも「海馬」と呼ばれる、記憶や不満に関連する領域が活性化するという。

さらに最近では、これまで調べられることのなかった医師サイドにも研究の手が伸び、医師が患者に対してどんな指示を出すかによって、脳のどの領域が活性化するのかを調べるプロジェクトも始まっている。 

2番目のテーマのうち、プラセボ反応が起こる条件については、本書の中でもある程度扱われているので、ここではプラセボ反応の限界について、興味深い結果を取り上げよう。

それはカプチャクのチームが行った、喘息患者に対するプラセボ対照研究から得られた知見である。ちなみにその実験は、かつて行われたプラセボ研究の中でも、もっとも注意深く対照され、決定的な結果を出したものとして、高く評価されているものである。

カプチャクは当初、本物の治療と偽の治療のどちらを受けた被験者も、呼吸機能には改善が見られるだろうと予想していた。なぜなら、偽の治療であっても、プラセボ効果による改善が見込めるからである。ところが予想に反して、偽の治療を受けたグループでは、測定された呼吸機能には改善が認められなかった。一方、被験者への聞き取り調査では、どちらのグループもまったく同じように、症状が改善したと報告したのである。つまり、患者の主観的な経験が、客観的な身体的測定器と食い違ったことになる。

この結果は、プラセボの限界の一端を明らかにし、プラセボのみに頼った治療では患者が事実とは異なる安心感を持ってしまい、そのせいで必要な治療が手遅れになる恐れがあることを示している。しかしそれと同時に、治療の方法によっては、身体的には直接的な改善が見込めない場合でも、患者がより楽な気持ちになれるということを示していると見ることもできよう。とりわけ、長期にわたる慢性の病気の場合、患者がより快適でいられることが、病気の経過に影響を及ぼす可能性もあるのではないか、とカプチャクは見ている。 

第3のテーマ、すなわちプラセボ反応を起こしやすい人とそうでない人を、あらかじめ識別することは可能かというテーマについて言えば、2012年にPiPSで行われた研究によると、両者の違いには、遺伝子レベルでの生物学的基礎がある可能性が示唆されている。 

カプチャクらの研究によると、ドーパミンの放出に関係する遺伝子に、特定のタイプの変異を持つ人は、そうでない人と比べて、偽鍼による治療に反応しやすいという。もしもプラセボ反応の起こりやすさに、こうしたDNAレベルの基礎があるとすれば、新薬の開発にも影響が及ぶだろうと語る医療関係者もいる。というのも、新しい薬を開発するための臨床試験では、プラセボよりもかなり大きな効果があることを示さなければならず、ひとつの新薬ごとに、数100億円規模のお金と、数10年の時間が費やされている。したがって、もしもプラセボ反応を起こしやすい被験者を知り、それを臨床試験の手続きに反映させることができれば、試験の規模や、費用および期間の大幅な削減につながる可能性があるからである。もしそれができれば、従来よりも速やかに、そしてより安価に、新薬を市場に出せるようになるかもしれない。

プラセボ効果は、無意識のレベルでも起こることが示されている。やはり2012年に、カプチャクのチームが心理学者と共同で行った研究では、ほんの一瞬、特定の画像をスクリーンに映し出す。その時間はきわめて短いので意識的には認識できないが、もしも被験者がその画像を治療と結びつけるように準備されていれば、プラセボ反応が起こるというのである。

カプチャクは、「プラセボで、がんを縮小させたり、ウイルスと戦ったりすることはできません」という。しかし、比較的軽い症状や慢性病には、プラセボ効果が大きな力になってくれるだろう。また、プラセボ効果の研究は、医師と患者の相互作用にも科学の光を当ててくれるに違いない。「私たちは、医術(the art of medicine)を、医療の科学(the science of care)に変えていかなければなりません」というのが、カプチャクの信念なのである。

インチキ療法の文脈で語られ、胡散臭い雰囲気をまとうことの多かったプラセボ効果だが、こうして科学の土俵に乗せられ、複雑に絡まり合っていたさまざまな要素がときほぐされていくにつれて、思いもよらぬ魅力的な姿を現しつつあるように見える。プラセボ効果が医療の現場で、文字通りの意味において「私は喜ばせるであろう」という役割を演じる日も、それほど遠くないのかもしれない。

(2013年7月 青木 薫)

※『代替医療解剖』は、単行本『代替医療のトリック』を改題し、文庫化されたものです。

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