『宰相のインテリジェンス 9.11から3.11へ』 著者ノート by 手嶋 龍一

新潮文庫2013年09月09日 印刷向け表示
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宰相のインテリジェンス: 9・11から3・11へ (新潮文庫)
作者:手嶋 龍一
出版社:新潮社
発売日:2013-08-28
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アメリカ大統領は決まって毎朝8時半からインテリジェンス・ブリーフィングを受ける。政府部内の17を数える情報機関から選り抜かれてくる特上のインテリジェンスが国家情報長官を通じて報告される。PDBと略称される大統領への諜報報告は、戦争のさなかも、外遊先でも、休暇中でも、一日も欠かさず行われる。外交・安全保障上の最高機密が明かされるこの場に日本の総理として初めて同席を許されたのは小泉純一郎だった。「ブッシュの戦争」をいち早く支持してくれたニッポンのリーダーをトップ・シークレットでもてなしたのだろう。

その朝、テキサス州のブッシュ牧場に建つコテッジでふたりの首脳を相手に情報の分析と評価が披露された。この後、小泉総理はプールサイドに誘われ、通訳を交えただけの日米首脳会談に臨んでいる。常の首脳会談には、ノートテーカーを兼ねてアメリカ側からは国家安全保障担当大統領補佐官、日本側からは外務審議官が同席する。現地で取材にあたっていた筆者はホワイトハウス高官に「彼らの姿が見えないのはなぜ」と質してみた。高官は苦しそうな表情を浮かべたまま押し黙った。自分の口からは言えないが、重大な裏の事情が絡んでいるんだ。数秒の沈黙はそう教えてくれていた。

小泉総理は日を経ずにロシアのサンクト・ペテルスブルクに向かって飛び立った。

「郊外の賓客用山荘・ダーチャに滞在しているのですがいらっしゃいませんか。小泉総理もお待ちです」

同じく訪ロ中のブッシュ大統領に同行していた筆者に政務秘書官から誘いの電話がかかってきた。厳しい検問を五度くぐり抜けて訪ねてみると、小泉総理は広い部屋でひとり待ち受けていた。とりとめのない話ばかりで用向きを一向に切り出さない。「ご多忙でしょうから」と立ちあがりかけると、「まあまあ」と制してようやく核心に踏み込んできた。

「ブッシュ牧場ではなぜ二人だけの会談になったんだろう」

確かに外務省には尋ねられない疑問だった。

「ブッシュ大統領としては、会談に同席させたくない人物がいたのでしょう」

小泉総理はひとことも発せず、表情も読ませなかった。だが眼の奥に鋭い光が迸った。小泉総理は電撃的な北朝鮮訪問にあたってブッシュ政権に内報しなかった。ブッシュ大統領は怒っていたのである。ことを荒だてるつもりはないが、凍土の密使と危うい交渉をした者は許さない。プールサイド会談にはそんなメッセージが込められていたのである。小泉政権の官房副長官として対北朝鮮交渉に携わり、その内幕を知る安倍晋三は、同盟外交の苛烈さに慄然としたことだろう。そして眼前に繰り広げられる事象から相手の意図を読みとり、インテリジェンスを紡ぎだすことの大切さを思い知ったにちがいない。

彼は小泉内閣の後を襲って総理官邸に入り、大統領制的な首相を目指して、日本版NSC・国家安全保障会議と日本版CIA・中央情報局構想をぶち上げた。だが健康に不安もあって一年足らずで政権を投げ出し、ふたつの構想も流産してしまう。失意のなかで安倍晋三は、いつの日か総理の座に返り咲き、国家指導のありようを変えたいとノートに課題を書き連ねた。内閣総理大臣のリーダーシップを補佐する機能の強化こそ最優先事項のひとつだった。総理執務室にひとたび身を置いた者でなければ、この国の最高指導者がどれほど哀れな裸の王様であるかは判るまい。国家が重大な危機に瀕しても、誤りなき決断に導く補佐組織もなく、適確な情報を提供してくれる満足な情報機関もない。欠陥国家ニッポンの惨状を身を以って味わったのである。

安倍晋三は5年ぶりに総理の座に復帰するや官邸の機能強化に向けて再び動き出した。第一次安倍内閣では、日本版NSCと日本版CIAの構想が並び立っていた。第2次安倍内閣では、日本版NSCの設立をまず先行させ、情報機能の強化は今後の課題としている。たとえ日本版CIAを創設しても、良質なインテリジェンスを見極める主体が確立されていなければ意味をなさないと悟ったからだろう。

ブッシュ政権で国家安全保障担当大統領補佐官を務めたコンドリーザ・ライスも新著『ライス回顧録』で、トップに持ち込まれるインテリジェンスについて、「情報機関の分析が確かなものであることはめったにない」と酷評している。9・11同時多発テロ事件を受けて、イラクは大量破壊兵器を保有しているという禍々しい情報に踊らされ、ブッシュ政権は力の行使に突き進んでいった。大統領を根拠なき決断に導いてしまったと無念の思いを行間に滲ませている。だが大統領補佐官として、その責めを情報機関に負わせてはいけない。

インテリジェンスは、一国のリーダーが命運を賭かけて下す決断の拠り所となる。相反する雑多なインフォメーションの洪水から事態の本質を窺わせる情報を選りすぐり、周到な分析を加えて初めてインテリジェンスは決断に資するものとなる。ダイヤモンドの原石に匹敵するような、貴重な情報を見つける決め手は何なのだろう。敵の懐深く浸透して機密を盗みとってくる諜報部員の存在か。過去の事象をスーパー・コンピュータに蓄えたビッグデータか。それとも事態の本質を透視する霊感なのか。

本書のハードカバー版で解説を書いてくれたインテリジェンス誌「FACTA」の阿部重夫編集長は「いずれでもあっていずれでもない」と言う。

「インテリジェンスのもとはラテン語のintellegentia。inter(中を)lego(読む)作業、すなわち『内在する物語を読む』ことに尽きる。インテリジェンス・オフィサーとは、優れた物語の紡ぎ手なのだ。手嶋氏を衝き動かしているのも、この内在する物語を語る本能だろう」

本書は巻頭でいきなり読者をアンドリューズ空軍基地内のゴルフ場に連れていき、多忙の合間の息抜きにプレーしているように装うバラク・オバマ大統領、シークレットサービスのイヤホンに飛び込んでくる交信の模様を描く。やがてこれが時を同じくしてパキスタンの軍事都市で進められていた、ビンラディンを急襲するネプチューンの槍作戦の目くらましだったことが明かされる。事前通告もなくパキスタン領内に密かに侵入し、9・11事件の復讐を命じる大統領の決断が映画の脚本のように叙述された物語のなかにこそ本書の眼目があると喝破している。

「手嶋氏の意図は最後に明らかになる。東日本大震災の翌早朝、首相官邸からヘリで飛び立ち、東京電力福島第一原発に降り立って、危機の陣頭に立つパフォーマンスを演じながら、海水注入に手間取って炉心溶融を起こした菅直人総理を対置させているからだ。官邸で怒鳴りまくって実は決断を回避していた無残な物語である。/そう、決断の前に万全の情報などほとんどない」

ひとたび著者の手を離れた著書は、いかに読まれようと、すべては読み手のうちにある。筆者はこの評者に五年間にわたって月に1度「インテリジェンス・リポート」を雑誌のコラムとして届けていた。毎回シュールな見出しをつけるそのひとは、戦後ニッポンの憂うれうべき事態は、首相官邸と霞が関の統治のありように潜む深き退廃なのだと見抜いていた。

「インテリジェンス感覚を磨くための格好の教科書はありませんか」

若い読者からこんな質問を受けることがよくある。

「うーん」と言葉に詰まってしまい、「ジョン・ル・カレやグレアム・グリーンが書いた情報小説を読んでみてはどうでしょう」と薦めてみる。真のインテリジェンスは、深い思索のなかで醸成され、しかも情報源の秘匿を至高の責務とする。このため優れたインテリジェンス・ストーリーは物語の形式をとることが多いからだ。9・11事件から3・11事件に至る10年の物語も、扱った素材はすべてノンフィクションなのだが、物語のひとつとして読まれていいのかもしれない。

新興の軍事大国、中国がめきめきと力をつける東アジアにあって、鍛え抜かれ、洗練されたインテリジェンス感覚を身につけた若い世代のなかから、この国のありようを変える逸材が必ずやでてくると信じている。誕生まもない明治国家からソ満国境に身を潜めた石光真清が生まれ、独ソ戦前夜、欧州の地に独自のユダヤ人情報網を築いた杉原千畝のような逸材が必ず。

2013年6月28日 手嶋龍一

※なお、この作品は2011年12月に新潮社より『ブラック・スワン降臨』というタイトルで刊行されたものを、加筆修正したものです。

 
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