無能な研究者のずさんな仕事……なのか?除草剤アトラジン問題のゆくえ

2014年3月9日 印刷向け表示
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The New Yorker [US] February 10 2014 (単号)

作者:
出版社:Conde Nast Publications
発売日:2014-02-14

除草剤アトラジンをめぐる長年の論争がひとつの山場を迎えているようで、『ニューヨーカー』の2月10日号にホットなレポートが載っていました。アトラジンは日本でも使われている除草剤でもあり、今後の成り行きが注目されます。

が、今回の記事はアトラジンの性質というよりもむしろ、医薬品や農薬などの安全性を調べている科学者が、その製品を製造販売している企業にとって好ましくないデータを出してしまったらどうなるのか--しかもそこに巨額の金が絡んでいるときには--という、われわれとして知っておくべき残念な事実に関するものでした。

除草剤アトラジンの問題は、両生類(とくにカエル)の内分泌学を専門とする、タイロン・ヘイズという研究者を抜きにしては語れないようで、『ニューヨーカー』の記事もヘイズを軸として展開されていました。

ヘイズは、サウスカロライナ州出身のアフリカ系アメリカ人で、彼が生まれ育った地域では、人口の六割以上が高校を終えていないのだそうです(高校卒業率が40%を切る、ということですね。ちなみに日本は高校卒業率95%、アメリカ全体では78%程度です)。しかしヘイズは成績優秀だったため、奨学金をもらって別の地域の高校に進むことができました。彼が両生類に興味を持つようになったのは、この頃だったそうです。オタマジャクシがカエルになるという劇的な変化が、彼には魅力的だったといいます。ヘイズは家の中でカエルやオタマジャクシをわさわさと飼いはじめ、家族からは「天才と変人は紙一重」などと言われていたそうです。

ヘイズは奨学金を受けてハーバード大学に進みますが、大学ではひどいカルチャーショックに苦しめられました。ハーバードにはアフリカ系アメリカ人の学生もいるのですが、みんな裕福な家の出だったそうです。そんなキャンパスに居場所のなさを感じて大学を辞めることも考えたヘイズでしたが、幸いにも、韓国系アメリカ人の彼女ができたり(同じ生物学専攻で、二人は卒業と同時に結婚します)、「うちの研究室に来ないか」と誘ってくれる教授がいたりして救われます。

ハーバードを卒業後、カリフォルニア大学バークレー校に移って三年半で博士号を取得し、すぐに同校にポストを得ることができました。こうしてヘイズは、生物学の分野ではアメリカ全体でもわずか数名しかいないという、テニュアを持つアフリカ系アメリカ人の教授となりました(この時点では準教授)。同じ分野の研究者はヘイズのことを、「信じられないほどの天分に恵まれ、しかも猛烈に仕事をする」と評しています。しかも彼は教育にも力量を発揮して、教育実績に対してバークレーでも最高の賞を受賞していますし、彼の運営する研究室には、彼同様アカデミックな世界に居心地の悪さを感じるマイノリティーの学生が集まり、アメリカでも有数のマルチカルチュラルな研究室となっているそうです。

ヘイズは研究者として順風満帆の船出をしたように思われました--1997年、三十一歳のときに、シンジェンタ社と契約し、除草剤アトラジンの影響を調べることになるまでは……。シンジェンタは、モンサント、デュポンに次ぐ世界第三位のアグリビジネスの多国籍企業で(本拠地はスイス)、この当時はまだ大手製薬会社ノバルティスの一部門でした。

余談めきますが、ノバルティスはこのところ日本のメディアも騒がせているので、みなさんもきっとどこかでこの名前を見聞きしたことがあるのではないでしょうか。2002から~2010年にかけて、ノバルティスの高血圧治療薬「ディオバン」について、京都府立医大、東京慈恵会医大、滋賀医大、千葉大、名古屋大の計5大学臨床研究を行い、そのうち慈恵会医大と京都府立医大のグループは、ディオバンは他の高血圧治療薬と比べて、脳卒中や狭心症を防ぐ効果が高いという論文を発表しました。しかし2013年春、これらの論文を作成するプロセスに、ノバルティスの元社員が関与していたことが発覚したのです。京都府立医大、慈恵会医大、滋賀医大は、論文に不正や不適切なデータ操作があったとの調査結果を発表しています。

話を元に戻すと、ヘイズが除草剤アトラジンの影響について研究をするうちに、シンジェンタにとって思わしくない結果が出始めたのです。そのためシンジェンタとのあいだで緊張が高まり、2000年、ヘイズとシンジェンタとの契約は打ち切りになります。

アトラジンは、アメリカでは二番目に広く用いられている除草剤で、(一番目はモンサント社のグリフォセート)、年間売り上げは三億ドルと言われ、アメリカでは中西部のトウモロコシ農家で広く使われています。米環境保護庁の計算によれば、もしもアトラジンの使用をやめると、アメリカ全体でトウモロコシの生産量が六%減少し、年間二十億ドルの減収になるということです。

アトラジンについてヘイズが得た思わしくない結果というのは、オスのカエルの生殖器に異常が見られたことです。で、契約が打ち切りになった時点でアトラジンの研究も止めていれば、ヘイズは順風満帆のままだったのかもしれません。しかし、彼はその後もなんとか資金繰りをしながら、アトラジンの影響を調べ続けたのです。

そのころから、ヘイズの身の回りに奇妙なことが起こり始めます。ラボにかかってきた電話の受話器をとると、盗聴されているときの、あのカチカチカチという奇妙なノイズが聞こえたり(「あの」と書きましたが、わたし自身はそういう経験をしたことはありません(^^;)。でも、スパイ映画ではよくありますよね?)、自分が得た最新のデータを、どういうわけかシンジェンタに漏れているらしいことが判明したり、学会や研究会に行くと、生物学者にしてはパリッとしたスーツの男を必ずいて、熱心にメモを取り、ヘイズの発表にケチをつけたり……。そんなわけで、重要な出張のときには、一晩ごとに宿泊するホテルを替えることもあったそうです。

ヘイズはそんな事態に頭を痛め、シンジェンタが自分の信用を落とし、学界で孤立させようとしている、と仲間の研究者にも語るようになりました。周囲の人たちは、まぁそれはそうかもしれないけれど、ヘイズもちょっと被害妄想なのでは? ぐらいに思っていたようです。

ところが、昨年(2013年)の夏、中西部の二十三の自治体が、アトラジンの危険性を隠蔽しているとしてシンジェンタを訴えていた集団訴訟に関係する手続き上、シンジェンタの内部資料が開示されたのです。それは数百件に及ぶ、メモやノート、電子メールなどでした。それらの資料調べた結果、ヘイズは被害妄想でもなんでもなかったこと、そして「ここまでやるか!」というシンジェンタの手口が明らかになったのです。

この15年間、潰されずに戦い続けたヘイズはすごいわ、と思わずにはいられません。今回の『ニューヨーカー』の記事は。それらの資料を読み込んだ上でのレポートということになります。

シンジェンタとの関係を切った後の2002年に、ヘイズがアトラジンの影響に関する最初の論文を発表すると、シンジェンタのPRチームは対抗措置を講じ始めます。2004年になると、なんと週一回のペースで、ヘイズ対策ミーティングを開いていたこともわかりました。そのミーティングでは、ヘイズの信用を落とすために行うべきことのリストを作成したりしています。

シンジェンタは金もマンパワーもありますから、たとえば(先述の高血圧治療薬ディオパンのケースのように)専門家の研究グループに社員をもぐりこませたりもしますし、時給500ドルで経済学者を雇い(時給五万円だと、二時間でレポートを書き上げても十万円、十時間かかったといえば五十万円ですか……ボロい仕事ですね)、アトラジンを市場から引き上げると、農作物にどれだけ損失が生じるかを計算してもらったり、Googleのサーチワードに
Tyrone Hayesと入れると Throne Hayes Not Credibleといった検索語が出てくるようにしたり……。

わたしも2月18日の時点で、ヘイズの名前でGoogle検索してみたのですが、誰が書いたのかわからない微妙なウィキペディアの次に出てくるのは、JunkScience.comというサイトでした。このサイトではヘイズのことを、デタラメな研究をする無能な科学者だとしていますが、じつは、このサイトを運営しているNPOの責任者でフリーランスのコラムニストであるスティーブン・ミロイという人物は、シンジェンタから数万ドルの金を受け取っているのだそうです。その他にもいろいろな企業から金をもらって、研究者の信用を落とす仕事をしているんでしょうね。わたしは『ニューヨーカー』の記事を読んでから検索しているので、そういう事情がわかるわけですが、もしもそうではなくGoogleにヘイズの名前を入れてみた人は、「ヤバそうな研究者だな…… 」と思うでしょうね。こうしていろいろな方面から「無能な研究者のずさんな仕事」攻撃をされると、まず、論文が引用されにくくなります。シンジェンタは専門誌に対しても、「こういうずさんな仕事を載せたのでは貴誌の評判に関わる」という圧力もかけています。そして、論文の細部にいちゃもんをつけて、その部分を補強するためには時間とエネルギーと金がかかり、研究を先にすすめられないようにするのです。不都合な研究をするやつは潰す、というわけです。

シンジェンタは研究者個人に圧力をかけてきただけではありません。たとえば2003年には、人間の新生児に対する疫学調査の結果にもとづき(中西部で水中のアトラジン濃度が高い4月から7月までの間に受胎した子どもでは、先天的な性器の異常が多く見られるというもの)、『ニューヨーク・タイムズ』が、アトラジンの危険性に関する特集記事を組みました。それに対抗してシンジェンタは、「ホワイトハウス・ライターズ・グループ」というアメリカでは非常に有名なコミュニケーション・コンサルティング会社と契約します。同社の取締役の一人であるジョシュア・ギルダーは、シンジェンタへの電子メールに、「アトラジンの使用をやめれば経済的に大打撃になるという線で、われわれは新たな戦いを展開する」と述べ、ワシントンの有力者を招いてディナーパーティーをひらき、アトラジンは有害だとする研究の信用を落とすために努力する、などとと述べています。

余談になりますが、このジョシュア・ギルダーという人物は、レーガン大統領のスピーチライターをやっていた人で、『ケプラー疑惑』という(ケプラーがブラーエを暗殺したんじゃないかという疑惑)本の著者でもあります。この本の中では、もう、あることないこと、科学的にグダグダなことを書きまくって、害悪を撒き散らしてくれやがったヤロウなんです! (はっ! す、すいません、わたしはケプラー・ファンなもので、思わず力が入ってしまいました~(^^;))

さて、米国環境保護庁は現在、アトラジンを市場から引き上げるかどうか、あるいは継続使用するかどうかを改めて検討中です。アトラジンはヨーロッパでは2003年には使用禁止が決定されているのですが、米国環境保護庁はその後もずっと、「危険性を指摘する研究は信頼性が足りない」という理由により、継続使用を決めてきました。話は長くなるので、ここでは詳しくは述べませんが、シンジェンタはもちろん! 環境保護庁にも回せる手は回していますので、今年の判断もどちらに転ぶかわかりません。

けれども、もしも今回市場からの引き上げが決定されれば、ヘイズにとっては15年間に及んだ戦いが、ひとまず決着するかたちになりますね。今ではヘイズも孤立無縁というわけではなく、さまざまな分野の研究者がアトラジンの影響を調べており、両生類だけでなく、脊椎動物全般のオスに悪影響があるということで証拠が固まってきつつあるようです。

もちろん、天然であれ合成ものであれ、いかなる化学物質も毒にもなれば薬にもなります。大量に摂取すれば、なんだって毒になります。とくに農薬の場合には、人口を支える食糧供給の問題も考えなければなりません。あらゆることを、バランスをとって判断しなければならないわけです。その点に関しては、シンジェンタやモンサントの言うとおりなんです。

しかし、だからこそ、公正な研究ときちんとした検討が必要なのに、そういう研究に取り組んでいる研究者を潰すためにここまで汚いことをやるなんて、ダメでしょそれは……って思うんですよね。巨額の金が絡むところでは何が行われるのか、われわれはそういうことも知る必要がありそうです。

最後に関連書籍をひとつ。企業にとって「不都合な研究」の「信用を落とす」という戦略は、今では一種の「共有財産」のようになっているらしいのですが、そのためのノウハウを系統的に蓄積してきたのは、タバコ産業なのだそうです。次に挙げるのはそれをテーマとする本で、なかなか恐ろしい内容となっています。

Doubt is Their Product: How Industry's Assault on Science Threatens Your Health

作者:David Michaels
出版社:Oxford University Press, USA
発売日:2008-04-14
決定版-HONZが選んだノンフィクション (単行本)
作者:成毛 眞
出版社:中央公論新社
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