よく生きるために学べ『フィンランド理科教科書 生物編』

2014年3月14日 印刷向け表示
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フィンランド理科教科書 生物編

作者:Mervi Holopainen
出版社:化学同人
発売日:2014-02-28
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インフォームドコンセントの世の中になって、お医者さんはたいへんだ。相当時間をかけて説明しても、頭のなかに『?』しか残らない患者さんや患者さんの家族がかなりの割合でおられるにちがいない。

医業を営んでいないといっても、医学部を出ているので、近所のおばばとかに病気の相談をされることがある。どのあたりの基本的なことから、どの程度の詳しさで話をしたらいいかが難しい。もちろん最初からきちんとすべてのことがわかるように説明するのがあらまほしけれど、それでは時間がかかりすぎる。

いまはまだいい。千ドルゲノムの時代がやってくると、USBメモリーをもってきて『せんせ、わたしのゲノムこれですねん、いちばんええ治療を見繕うてくんなはれ』とかいう患者さんが出てくるはずだ。いよいよ、どこからどういうように説明すればいいかわからないだろう。

そこまではいってないけど、アンジェリーナ・ジョリーのおっぱいからもわかるように、遺伝子診断をどう解釈するか、という時代なのである。多くの人が遺伝情報に基づいて病院に相談にやってきたら、必要な医師や遺伝カウンセラーの数は膨大になってしまう。

仲間内でこういう話が出たときに、必ずでる結論は、初等・中等教育において、生命科学、とまではいわなくとも、体のこと、そして、病気のこと、をある程度きちんと教えておくべきだということである。いますぐにそのようなことをはじめても、効果がでるまで、すなわち、病気になりがちな年齢になるまでには半世紀近くかかる。すでに遅きに失しているくらいなのだ。

で、いきなり話はかわるが、教育といえばフィンランドである。国の大きさや条件が違うので比べるのは難しいだろうけれど、かねがね、すぐれた教育がなされていると噂には聞いていた。そして、去年出版された『フィンランド理科教科書 化学編』を読んで驚いた。

知識を植え付ける、という発想ではなく、生きていくために必要な化学を身につけましょう、という姿勢が如実にあらわれていた。決して網羅的ではない。しかし、基本的なことから、ものによっては、中学校の教科書とは思えない高度なことまで説明されている。それも、身近なものを例にとってあるので、自然と興味がわくようになっている。

待ち遠しかった『生物編』がでた。期待をうわまわる内容だった。フィンランドの制度では、中学校での生物学教育は、『水辺の生物』『陸地の生物』『進化』『環境』『人体』からの選択制になっている。この項目だてを見ただけで、日本の教科書との目的の違いがわかる。今回は、このうちから、『進化』と『人体』の一部が訳されている。

『人体』については、医学でいうところの、生理学、解剖学、組織学、といったところがおもな内容だ。われわれの体がどのようにできあがっているのか、そして、どのような働きを持っているのか、が、うつくしいイラストや写真を駆使して説明されていく。

残念ながら、分子生物学のこまかなことや病気についての記述はない。と書きながら、あぁそうか、中学校の教科書だからしかたがないのか、と思い返した。そんな勘違いをさせるほど、かなり高度な内容までが紹介されているのだ。

あくまでも教科書であるから、これを使って先生がいろいろなことを教えていかれるのだろう。それをふまえて、章の最後には、応用編ともいう練習問題がしつらえられている。

『循環系』の『血液の旅』という設問では

  1. 左手の親指から右手の親指まで、血液がどうやって流れるのか説明しなさい。
  2. 血流に影響を与える要因にはどのようなものがあるか?
  3. 体内を流れている間に血液にはどのようなことが起きるか?

『遺伝』の『遺伝子について話しなさい』では

あなたのノートに、「遺伝子」について簡潔に、要点をまとめて記述しなさい。以下の単語を使うこと

細胞、核、遺伝因子、形質、DNA、染色体、タンパク質、
対立遺伝子、優性と劣性

といった感じである。さて、あなたは答えることができただろうか?難しいと思うなかれ。繰り返しになるが、これは中学校の教科書なのである。

全編を通して感じることは、化学編と同じように、試験や受験のためでなく、『生きる』ために必要な知識をつけるという姿勢に満ちていることだ。それが顕著にあらわれているのは、他よりも長いめのページ数がさかれている『生殖』の章である。

『成熟する性』、『責任あるセックス』、『赤ちゃんの誕生』の三つのセクションにわかれていて、『成熟する性』では女性器と男性器の解剖と生理、『赤ちゃんの誕生』では受精から妊娠、出産、授乳までが描かれていて、医学的な内容だ。

まんなかのセクション『責任あるセックス』は性教育である。正規の理科の授業にとりいれられているのがクール。セックスの喜びや楽しみ、傷つけられる性、避妊は二人の責任、コンドームは確実で簡単に購入できる、ホルモン系避妊方法の信頼性、もし避妊に失敗したら、性感染症、という小見出しを見ただけでわかるように、内容はかなりディープ。

では、ここでも練習問題、『あなたは準備ができているか?』。

  1. 親密な関係を結ぶ前に、あなたは一人でどのようなことを考えなければならないか?
  2. 性行為を行う前に、あなたたちは一緒にどのようなことを考えなければいけないか?
  3. 二人の間のセックスにおいて、「責任と信頼」とは何を意味するのか、議論しなさい。

かなりつっこんだ哲学的な質問なのである。

最後の章は『ヒトの一生』と題されていて、幼年期から老年期、そして臨終にいたるプロセスが描かれる。そして、最後のコラムが『幸福な人生とは』。

幸福な人生とは何か。その答えは、人それぞれだろう。人生に起伏を求める人もいれば、穏やかな人生を望む人もいる。完ぺきな人生というのはほとんどありえないが、困難や危機は、私たちが精神的に成長できる機会でもある。    (中略)

健康的な生活習慣、何事にも積極的な姿勢、親密な人間関係、そして良い友人たちが、人生の苦痛に耐え、人生を意味のあるもにする最良の助けとなる。  

自分を大切にしなさい。なぜなら、あなたがたは、あなた自身の人生にとって、かけがえのない主役なのだから。

念のためにもう一度いうが、中学校の生物の教科書なのである。その最後に、こういったことのために生物について学びましょう、という強烈なメッセージが出てくるのに感動した。

フィンランドというと、なんちゃらテストで世界一なので、いい教育をしている、などといって褒めそやすのはしゃらくさいことだ。教育というのは、生きるため、そして幸福になるためにこそ存在するのだ。我々は、いまいちど原点に立ち戻って考え直すべき時なのかもしれない。

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