『トロイアの真実』 シュリーマンは何を見つけたのか

村上 浩2014年04月22日 印刷向け表示
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一冊の本は、人の一生を変えてしまうほどの力を持つことがある。8歳のときに父親からプレゼントされた『子どものための世界の歴史』は、ハインリッヒ・シュリーマンの人生をハリウッド映画よりも劇的なものに変えてしまうこととなる。幼いシュリーマンは、その本に描かれていたトロイアが炎上する挿絵の虜になり、いつかその場を訪れることを誓った。ホメロスの『イリアス』にも描かれるトロイア戦争は空想の産物であると父親にいくらいわれても、シュリーマンは聞く耳を持たず、その争いを“史実”として信じていたという。

ビジネスマンとして大成功したシュリーマンは、子どもの頃の夢を忘れることはなかった。40歳を超えたシュリーマンは蓄えた資金を携えトルコへと発掘に向かい、気の遠くなるような作業の末、ついに夢物語と思われたトロイアを発見したのである。ロマンに満ちた彼の生きざまを知ったフロイトは、「シュリーマンこそもっとも羨むべき人生を送った人間だ」と感嘆したという。そして、シュリーマンの人生がつづられた『古代への情熱』は、『子どものための世界の歴史』が彼の人生を変えたように、多くの若者の人生を変える力を持つ一冊となった。

しかし、人々に広く知られたこのシュリーマンの物語は、今ではその多くが事実に基づかないものであることが指摘されている。本書で参考文献としてあげられている『シュリーマン―黄金と偽りのトロイ』は、二段組み400頁強にわたる徹底的な検証によって、シュリーマンは幼年期にトロイアに興味など持っていなかったこと、ヒサルルック遺跡をトロイアであると最初に見きわめたのはイギリス人外交官カルヴァートであることなどを明らかにしている。

「幼少時代からの夢の実現」というストーリーが捏造であったとしても、発掘手法が考古学的に未熟な素人仕事だったとしても、シュリーマンが常軌を逸した熱量で知られざる遺跡の発掘という偉業を成し遂げたことは紛れもない事実。彼とその後継者デルプフェルトによる発掘、文化編年(諸文化の変遷を辿る年表)の作成は、現在のアナトリア考古学の基礎となっている。アナトリアとは現在のトルコほぼ全域を指す、紀元前2000年紀後半には「鉄と軽戦車」のヒッタイト帝国、4世紀からは10世紀以上にわたってビザンツ帝国、そしてそのビザンツ帝国を駆逐したオスマン帝国が支配していた地域である。

アナトリアのカマン・カレホユック遺跡の発掘に従事してきた著者はシュリーマンの偉業を肯定的に評価しながらも、その動機や発掘技術ではなく、彼の遺した最大の成果にこそ疑問を投げかけるべきだという。
シュリーマンが見つけたヒサルルックは、本当にトロイアなのか?

ヒサルルック遺跡はシュリーマン以降も1世紀以上にわたって、複数の研究者によって徹底的に発掘されてきた。研究し尽くされたと思えるヒサルルックではあるが、実は、そこがトロイアであることを示す考古学的証拠は何一つ発見されていないという。トルコの古典考古学の第一人者アクルガル教授も、著者の問いかけに以下のように答えている。

ヒサルルックをトロイアだとする決定的な根拠は正直なところ何一ないと思う。

証拠がないというのに、シュリーマンに続くヨーロッパ研究者には現在もヒサルルックをトロイアであると信じている者もいるという。ヨーロッパではホメロスが社会の歴史学や文学の基層として根付いており、その地で育った研究者の思い込みを強化しているのではないかと著者は指摘する。それでは、なぜシュリーマンはヒサルルックをトロイアだと確信したのか。彼は何を見て、何を考えたのか。著者は本書の副題ーアナトリアの発掘現場からシュリーマンの実像を踏査するーの通り、自らの足でその遺跡を訪ねることで、トロイアの謎に答えを出していく。著者は謎解きの興奮とともに、考古学的なものの考え方やアナトリア全土の歴史の概観を教えてくれる。

本書には遺跡や遺物のカラー写真も数多く掲載されており、現地の魅力がありありと伝わってくる。著者とともにシュリーマンの足跡に触れることで、1つの信念を胸に突き進んだ彼の情熱が伝わってくる。近年激しさを増すシュリーマン批判に対して、トルコの考古学者ズギッチュはこう述べている。

そこまで彼を批判するのならシュリーマンがやったことを一度でもいいからやってみればいい。机上ではなんとでもいえる

ヒサルルックがトロイアであるという証拠はない。シュリーマンのストーリーには虚偽の部分が多かった。それでも、多くの虚飾をはぎとってもなお、本書で語られる彼の命がけの人生には人の心を打つ何かがある。

シュリーマン―黄金と偽りのトロイ
作者:デイヴィッド・A. トレイル
出版社:青木書店
発売日:1999-02
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シュリーマンの人生を徹底的な緻密さで検証して、『古代への情熱』の真実性を検証していく。多くの人に夢を与えた彼の人生は、本当はどのようなものであったのかを明らかにする。

イリアス〈上〉 (岩波文庫)
作者:ホメロス
出版社:岩波書店
発売日:1992-09-16
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ヨーロッパの研究者には何かにつけて、「ホロメロスによれば」と語り始めるという。古典中の古典。

インダス文明の謎: 古代文明神話を見直す (学術選書)
作者:長田 俊樹
出版社:京都大学学術出版会
発売日:2013-10-10
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文字を残すことなく消え、謎に包まれてきたインダス。現代考古学の力で、多くの謎は少しずつ明らかにされてきている。出口会長のレビューと拙レビュー。 

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