パンをめぐる濃密な冒険『パンの世界』

土屋 敦2014年12月03日 印刷向け表示
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パンの世界 基本から最前線まで (講談社選書メチエ)
作者:志賀 勝栄
出版社:講談社
発売日:2014-10-11
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学術的な選書シリーズでパンがテーマ。となればパンの歴史や社会との関わりを論じたような本だと思うかもしれないが、実はまったく違う。めちゃくちゃおいしそうなパンの写真がたくさん載ったカラー口絵を眺めてから「まえがき」を読み始めると、いきなり目に入ってくるのは「シニフィアン・シニフィエ」という言葉。たしか私が社会人になった年に創刊された、この講談社選書メチエシリーズの第一回配本は現代思想の本だったよなぁ、などと思い出してしまうが、ここで書かれているのはソシュールのいうシニフィアン・シニフィエ(=「意味するもの」と「意味されるもの」)ではなく、パン好きであれば知らない人はいないほどの有名店、世田谷公園にほど近いパン屋さん「シニフィアン・シニフィエ」のこと。慌てて著者の名前を見直せば、なんとそのオーナーシェフ志賀勝栄氏自身が書いた本なのだ。

シニフィアン・シニフィエのパン(本書口絵より/転載許可済)

パンを買うのが好きな人はもちろん、パンを自分で作る人たちにとっても、志賀さんは天上人のような存在だ。大ヒットした高橋雅子さんの『少しのイーストでゆっくり発酵パン』シリーズや、最近ブームになってきている、ストウブやル・クルーゼで作る「こねないパン」(むちゃくちゃおいしくできるのでぜひ試してほしい)も、志賀さんのレシピが原点といえる。志賀さんは、「長時間発酵」と、生地に水をたっぷりと加える「多加水」によって、パン作りに革命を起こした人物なのだ。

加えて美食好きの人の多くも、彼のパンをレストランで食べているはずだ。NARISAWA、ル・マンジュ・トゥー、ミシェル・トロワグロ、アロマフレスカ……。志賀さんがシェフの注文に合わせて作ったパンは全売上の15パーセントを占めているという。

それにしてもパン職人が書く学術選書というのは本邦初なのではないか。なにしろ本書と前後して配本された選書メチエのラインナップは『海洋帝国興隆史』玉木俊明著、『知の教科書 カバラー』ピンカス・ギラー著、『本居宣長「古事記伝」を読む4』神野志隆光著、『緑の党 運動・思想・政党の歴史』小野 一著などなどだ。「志賀さん、かなり浮いてませんか?」と言いたくなる。

しかし、中身を読み始めると学術選書の体裁を取ったことに納得する。とにかく中身が濃密なのだ。

まずは6000年前のエジプトから、ローマ、中世、ルネサンス期に至るパンの発展、そして19世紀のイーストの発明、20世紀の夜間労働禁止令(それまでパン屋は夜中に働くものだったのだ)や製パン工場の誕生など、歴史をざっくりと概観したうえで日本のパンの現状と可能性を述べつつ、自身の修業経験について記す。

志賀さんは日本のホテルパンの第一人者、福田元吉のもとで学んだ。その福田の師匠はイワン・サゴヤンだ。帝国ホテルのオーナーだった大倉喜八郎は満州のヤマトホテルで食べたパンのうまさに驚いた。そのパンを焼いていたのが、ロマノフ王朝の宮廷料理人だったサゴヤン。大倉は、国を追われ満州に逃れてきたサゴヤンを2年がかり口説き落として日本に連れ帰り、帝国ホテルのベーカリー部門ができた。福田はそこでサゴヤンに師事し、自家培養した野生酵母のパンを含め、パン作りの基本を徹底的に学んだのだ。

福田が帝国ホテルにいる時代、パンなら帝国ホテルが一番うまい、と言われていたという。そしてホテルオークラに移ると、今度は「パンはオークラが一番」となり、ホテルパシフィックに移れば、「パシフィックのパンはうまい」と評判が立ったそうだ。

そんな福田のパン作りは他のパン職人と比べ、イーストの量は少なめで水分量は多め、発酵時間をしっかりとる。そして添加物は入れない。これは、まさに志賀のパンの原点である。つまり、革命児とも言われる志賀さんのパンは、実はサゴヤン、福田元吉と続く、日本における「おいしいパン」の伝統の本流にあるといえるのである。

続く、彼の経営論も面白い。彼はまず日本では常識とされてきた「焼きたて」を売りにせず、「焼きたてじゃなくてもおいしい」パンを全国配送する。そして彼の多加水パンの見た目は、決して派手で見目麗しいわけではない。形が見事に揃った美しいパンは日本のパン職人が得意とするところだが、多加水の生地はデレッとしていて、せいぜいナマコのような形にしか成形が難しいのだ。志賀さんは多加水を優先させるため、フォルムを捨てたわけである。そして、長時間発酵のため、志賀さんは夜中に働いている。つまり、昼間に目を覚ましている「普通の生活」を捨てている。

エッジの効いた仕事をするためには、どれだけ割り切って捨てられるかが勝負になるのです。

この言葉はあらゆるクリエイティブな仕事についていえることだろう。

フォルムより多加水のメリットをとる(本書口絵より/転載許可済)

ここまでで2章。そして続く3章からが圧巻だ。小麦粉、発酵、水と塩、そしてパン作りそのものについて、鋭く、深く、濃密な技術論が展開され、圧倒されてしまう。

例えばこんな記述。

生地の中では、つねに微生物のヘゲモニー争いが起きていますが、それを利用している。イーストを発酵種に入れることで、新たなヘゲモニー争いを勃発させ、発酵種に含まれる菌の活動を抑える。(中略)イーストを入れることで乳酸菌がおとなしくなる。その結果、乳酸や酢酸が増えすぎないので、酸味を抑えられる。

こういう記述がぐっとくるマニアックな人は、ぜひとも本書を読むべきだろう。志賀さんは、こんなふうに微生物同士の闘いを利用し、味をコントロールするのだ。発酵種だけでパンを作っているパン職人自体少ないが、志賀さんは8種もの発酵種を培養し、それを数種類組み合わせたり、0.03パーセントほどのごく微量のイーストを加えたりして、魔法のように味を決めていく。

さらに、現在志賀さんが行っている18時間も寝かす「長時間発酵」を超える「超・長時間発酵」も実に興味深い。10日以上寝かせると、強い旨味とアルコール臭のある「奈良漬けのようなパン」になるという。現状では「おいしいと感じられるか微妙」というが、志賀さんは、「発酵食品としてのパン」ということを考えると、この「超・長時間発酵」は取り組むべき課題だという。4〜5年がかりの計画になるというが、いずれシニフィアン・シニフィエの店頭にこの旨みたっぷりのパンが並ぶ日を期待して待ちたいところである。

本書の読了後、1本のバゲットを見れば、その気泡構造のなかに、目には見えない、とんでもなく濃密なものが詰まっているような気がしてくる。目の前にあるパンの見え方がそのものが変わってしまうような一冊なのだ。 

シニフィアン・シニフィエのバゲット・プラタヌ(本書口絵より/転載許可済)

  

高橋雅子さんも志賀さんを敬愛している。

 大学で酵母を研究し、その後志賀シェフに師事したパン教室ロティ・オランの堀田さんの本です。

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