『テロルと映画』映画はテロリズムとどう共存してきたのか

アーヤ藍2015年08月31日 印刷向け表示
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HONZが送り出す期待の新メンバー登場! アーヤ藍は、ドキュメンタリーを中心に、社会問題をテーマとした映画の配給宣伝に携わっている人物。先日彼女が紹介した『それでも僕は帰る 〜シリア 若者たちが求め続けたふるさと〜』をはじめ、HONZで取り上げられる書籍とシンクロするようなテーマの映画も数多く配給している。今後の彼女の活躍にどうぞご期待ください。(HONZ編集部)

テロルと映画 - スペクタクルとしての暴力 (中公新書)
作者:四方田 犬彦
出版社:中央公論新社
発売日:2015-06-25
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俺は殺し方をギャング映画で覚えた

映画には本とは異なる影響力がある。ある映画に出会ったことで、程度に差こそあれ、人生に何か変化が生まれたような経験がある人は少なくないだろう。だが、その影響が必ずしもプラスの面に働くとは限らない。

冒頭の言葉は、インドネシアのドキュメンタリー『アクト・オブ・キリング』に出てきた一言だ。かつて大虐殺を行ったギャングたちに、当時の拷問や虐殺を再現させる同映画のなかで、ギャングのボスが発したこの言葉は、ずっと私の胸のなかで渦巻き続けてきた。

社会に映画を送り出す「配給」の仕事に携わる身として、映画がそれを観た人、そして社会にもたらしうる影響から、目を背けるわけにはいかない。

そんな中で出会ったのが本書『テロルと映画』である。凄惨な暴力、憎悪と怨恨を映画はどう描いてきたのか。テロリズムに対し映画に何ができるのか。テロリズムをテーマとした様々な映画を分析しながら、映画作品と社会との関係性、そしてテロリズムそのものについて紐解いていく一冊である。
 

「テロ」という線引きの暴力性とテロリズム映画

そもそも「テロ」という言葉そのものの危うさを、まず著者は指摘する。テロリストという言葉は、政治的・軍事的に敵対している国家や政治集団の間で、相手側を誹謗中傷するのに使われる言葉だ。境界線を引いて敵と味方に二分し、不毛な憎悪の応酬を生み出す。一方から見た「テロ」が、他方から見れば「正義」や「英雄」にもなりうることを考えると、この言葉自体がもつ暴力性と、生み出される「敵/味方」構造の脆弱性は明白であろう。

この「テロ」の性質から、テロリズムをめぐる映画は大きく2つに分けられる。1つはテロの線引きを“する”側の視点で、テロを外部のものと捉えた映画。もう1つは、線引きを“される”側の視点で、テロを自身の内部のものとして引き寄せて作られた映画である。

前者は、ハリウッド映画に代表される善悪二元論、勧善懲悪構図の映画だ。筆者はそれを「テロリズムを社会の秩序と安全を脅かす悪とみなし、その駆逐と排除の過程をエンターテインメントとして提示するフィルム」と表現している。

「世界に蔓延するテロリズムはすべてアメリカに敵対するものであり、犠牲者は必ずアメリカ人で、アメリカの男性によって根絶される」という図式は、怪奇映画からホラー映画まで、ジャンルを問わずハリウッド映画に共通している。

この「テロリスト」がかつては残虐なナチスや奇怪な宇宙人、共産圏からの凶悪なスパイだったが、現在はイスラムもしくは正体不明のテロリストに移行している。こうしたハリウッド映画は、「国家としてのアメリカの政策をイデオロギー的に忠実に反映」しており、これらの映画を全世界に向かって公開することは、ステレオタイプを蔓延させることだと筆者は説く。

後者の例として挙げられるのは、2002年にインドネシア・バリ島で起きた爆弾テロ事件を、当事国であるインドネシアが複眼的な視座のもとに描いた映画『天国への長い道』だ。

同作は、テロリストをみずからの内側に横たわる潜在的なものとして捉え、「人はなぜテロリズムの誘惑に陥ってしまうのか」「どうすればテロリズムによって生じた心の悲嘆を克服できるのか」といった問いへの解答を提示しようとしている。

そしてその“解答”は、自国で予想外に爆弾テロが起きたことに一番深く傷ついていた現地の人たちの心の慰安になった。同時に、国際社会における「テロリズム国家インドネシア」というステレオタイプの観念を振り払い、観光天国バリとしての名誉を回復する役割を果たしたと、筆者は分析している。

前者はある種の「プロパガンダ」的映画として機能し、後者は社会における「傷/喪失感」を癒すための映画だったと言えよう。どちらも政治的構造や社会的要請を受けて生まれた映画であり、その映画が今度は社会に影響を与える。そんな“循環”のなかに存在している。
 

「歴史」を問いなおす「革命的」映画

一方で、現存の社会構造に縛られない「革命的」映画も存在する。映画における革命、それは、幾度となく反復され、歴史の名のもとに信奉されてきた報道記録の映像を転倒させ、まったく異なった光景を映像として提示することだ。

たとえば、イタリアの政治的革命集団「赤い旅団」による政界の大物アルド・モロ誘拐殺人事件を扱った、マルコ・ベロッキオの映画『夜よ、こんにちは』。

この映画は「赤い旅団」メンバーの回想記や政治家、教皇らの発言を引用しつつも、事件を忠実に再現することは目的としていない。むしろそこに、就寝中に体験した夢や想像的な光景も同列に並べ、メタ映画的な仕掛けをつくることで、映像の操作そのものが政治的であることを示しながら、作品としても成立させている。

歴史を固定化した事実の集合と考えるのではなく、ありえたかもしれない無数の可能性を、想像的なもので補完する。そのなかで初めて、出来事の本質が浮かび上がり、より高い次元で歴史を認識することができると筆者は論じる。

本書の終章では、映画が今後、テロリズムの廃絶に向けて何をなしうるのかについて、筆者の考えがまとめられている。だがそれは、私たちが「どう映画を受けとめるのか」と対になって考えられるべき問題とも言えるだろう。

エンターテインメントとして観ている映画が無意識下で私たちに与える影響は小さくない。現実の記録映像とテロリズムを主題にした虚構の映画的映像とが、記憶の中で混ざり合うことも容易に起こりうる。映画の裏側に横たわっている意図や、その映画の社会における位置づけを掬い上げる訓練として、まずは本書と本書の中で紹介されている映画を照合するところから始めてみてはどうだろうか。

アーヤ藍ユナイテッドピープル取締役。ドキュメンタリーを中心に、社会問題をテーマとした映画の配給宣伝に携わる。小さい頃から現代美術、演劇、映画にはよく触れてきたが、共通して、人間の心理や社会構造を炙り出しているような作品を好む。戦争・紛争、心理学・コミュニケーションが最近のメイン関心分野だが、基本的には飽き性で雑食。

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