『ガイトナー回顧録 金融危機の真相』 米国財務長官がモラルを犠牲にしてでも守りたかったものとは?

村上 浩2015年09月22日 印刷向け表示
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ガイトナー回顧録 ―金融危機の真相
作者:ティモシー・F・ガイトナー 翻訳:伏見 威蕃
出版社:日本経済新聞出版社
発売日:2015-08-22
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私たちは一線を引いたのではなかった。私たちは怖れを知らないのではなく、力がなかったのだ。壊滅的な破綻を防ごうとして失敗したのだ。

アメリカ史上最大規模となったリーマン・ブラザーズの破産申請を、当時の米国財務長官である本書の著者ティモシー・ガイトナーは、このように振り返る。しかしながら、当時のマスコミの多く、左派の《ニューヨーク・タイムス》から右派の《ウォール・ストリート・ジャーナル》までが、モラル・ハザードを防ぐためにはリーマン破綻は良い選択だと反応した。そして、リーマンを“救わなかった”のではなく“救えなかった”のだという事実や、ガイトナーが何を恐れ、何を望みながら金融危機に立ち向かったのかという背景は、今でも理解されていない。

マスコミの前でしゃべることを好まなかったガイトナーが、危機対応の全容を600頁超の本としてまとめあげたのは、世界規模の金融危機にはどのような規制が有効だったか、監督機関にはどんな権限が必要なのか、押し寄せる無数の課題にどのように優先順位をつけたのか、そして現実の政策がどのように決断されているのかを多くの人が知ることこそが、次の危機への備えとなると考えているからだ。

リーマン破綻に端を発した世界金融危機については、規制当局・金融機関当事者やジャーナリスト、経済学者などによる書籍も多数出版されているが、最前線で指揮を執ったガイトナーだからこそ知り得たこと、見えていたものも少なくない。著者の一人称で展開される本書に多くの賛否が寄せられている。「最も信頼のおける本として、この先ずっと読み継がれるだろう」というウォーレン・バフェットのような好意的なものばかりではなく、ウォール・ストリートを救いモラル・ハザードを引き起こした男の言い訳であるという批判もある。個々の真実性は検証されていくだろうが、本書が金融危機の全体像をキサイティングなストーリーとして鳥瞰させてくれ、前代未聞の難題を前にしても諦めずに行動し続けた一人の実務家の伝記として多くの示唆を与えてくれることは間違いない。

左派からは国民生活よりも金融機関を優先させた、右派からは国民の税金を無駄使いした、と在任中常に批判に晒されたガイトナーの決意は、以下の言葉にあらわれている。

リーマン後、私は、危機に取り組む努力をさまたげるようなモラル・ハザードや政治的考慮への忍耐を、いっさい擲った。(中略)私たちはあらゆる手を尽くさなければならない。たとえ私たちが不評をこうむろうと、助けるに値しない人間や会社を助けることになろうと、やらなければならないのだ。

大衆やマスコミから嫌われることを分かっていながら、家族にまで多くな心理的負担を強いながら、細分化された規制当局内の政治的駆け引きでがんじがらめの中で、正しいと信じる道を突き進むのは容易いことではない。複雑に絡みあった葛藤と矛盾を抱えながら、それでもガイトナーが前進を止めない気力を振り絞っていく過程はあまりに過酷で、ビル・ゲイツですら「ガイトナーの仕事に比べれば、マイクロソフトの経営はずっと易しいものだった」と表現するほどなのである。

ウォール街出身の財務長官が身内たちを優遇している、と批判され続けたガイトナーだが実はキャリアを通して公務員であり続け、金融機関に勤務したことすらなかった(財務長官退任後の現在は、PE投資会社の社長を務めている)。「銀行家でも経済学者でも政治家でもなく、民主党員ですらなかった」というガイトナーを、未曾有の危機と対峙する財務長官にオバマ大統領が選んだのは、彼が危機対応のスペシャリストだったからだ。

両親の都合で幼少期をインドやタイで過ごしたガイトナーは、貧困国を生きる人々の現実とアメリカの影響力の大きさを実体験として思い知っていた。ビジネスでの成功よりも外交や国際開発に興味を持つようになった彼は、ヘンリー・キッシンジャーのコンサルティング会社でアジア担当アナリストとしてキャリアをスタートさせた。その後のガイトナーは、キッシンジャー以外にもラリー・サマーズやロバート・ルービンなどにその能力を認められ、経済学の博士号を持っていないにも関わらず、次々と出世の階段を登っていくこととなる。

政策決定者になりたいと公務員として財務省に移ったガイトナーは、29歳にして1990年に駐在財務官補という立場で日本にやってくる。日本こそが、ガイトナーが初めて金融危機を間近に見届けた場所であり、このときの体験はその後の彼の行動に大きな影響を与えている。アメリカの金融危機の結末として絶対に避けなければならないシナリオとして彼が思い描いていたのは、優柔不断な政策によってゾンビ銀行が生き延び、低成長にあえぐ日本の姿だったのだ。その後も、メキシコ、タイ、インドネシアなど、金融危機への対処していくなかでキャリアを築いていった。

信用というカタチのないものを相手にする金融危機では、何をするかよりもどう見られるかが重要となることも多い。ガイトナーも、本書中で繰り返し「金融政策という予想ゲームでは、内容よりも舞台の見栄えをよくするほうが大切だ」と強調する。人前で話をするのが苦手だったガイトナーは、ある意味では危機の財務長官としての資質を欠いていたのかもしれないが、考え抜き行動し続けた彼の言葉には強度がある。「金融危機の最中に心配しないようなら、それは考えが足りない」、「懸念は戦略にはならないが、優れた戦略には欠かせない」など、危機を予測するのでも分析するのでもなく、対処し解決するヒントがあふれている。

ガイトナーが実施した金融危機対策は正しいものだったのか、未だに議論は続いている。アメリカのGDPは危機前と比べて順調に成長しており、雇用も回復している。しかし、彼の危機対応とその後の改革が正しいものだったかが真に明らかになるのは、次の危機を迎えたときだろう。人々の信用という心理的要素が大きな役割を果たす金融危機においては、国民のリテラシー向上もその防波堤になりうる。危機の真実を伝え、次なる危機へ備えるための知恵を与えてくれる本書は、ガイトナーによる危機対応の総仕上げなのかもしれない。

フラッシュ・ボーイズ 10億分の1秒の男たち
作者:マイケル ルイス 翻訳:渡会 圭子
出版社:文藝春秋
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大いなる不安定
作者:ヌリエル・ルービニ 翻訳:山岡洋一
出版社:ダイヤモンド社
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作者:ナシーム・ニコラス・タレブ 翻訳:望月 衛
出版社:ダイヤモンド社
発売日:2009-06-19
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