夢の抗がん剤はこうして生まれた!『フィラデルフィア染色体』

仲野 徹2015年09月27日 印刷向け表示
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フィラデルフィア染色体
作者:ジェシカ・ワプナー 翻訳:斉藤 隆央
出版社:柏書房
発売日:2015-09
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フィラデルフィア染色体』と聞いても、医学関係者以外は何のことかわからないだろう。血液細胞の「がん」のひとつである慢性骨髄性白血病(CML)において認められる異常な染色体の名前である。その染色体の発見から、CMLに対する夢の特効薬がどのようにして開発されたかを丁寧に描いたのがこの本だ。

1959年、フィラデルフィアのがん研究者と「染色体おたく」が共同して、CML患者の白血病細胞に、正常な血液細胞には存在しない「いもむし」のような形をした微小な染色体が存在することを発見した。翌年、その成果は、超一流科学誌サイエンスに、たった300語という異例の短さの論文として発表された。CML患者の95%以上にこの染色体異常が見つかることがわかり、発見された都市にちなんでフィラデルフィア染色体と呼ばれるようになった。

フィラデルフィア染色体が「相互転座」によって生じることがわかったのは、10年以上もたった1973年のことである。相互転座というのは、染色体の一部が他の染色体の一部と入れ替わる現象だ。フィラデルフィア染色体では、9番目と22番目の染色体の端っこが入れ替わっていることが証明されたのである。

ヒトの細胞には46本の染色体、うちわけとしては22本の常染色体が一対と二本の性染色体、がある。常染色体は長い順に番号がふられているので、22番染色体はいちばん短い常染色体だ。フィラデルフィア染色体は9番染色体と22番染色体の相互転座であるが、いれかわった染色体の断片は9番染色体由来の方が短い。そのために、相互転座の結果、もともと短い22番染色体がさらに短くなって、ちんちくりんの微小染色体が作られていたのだ。

70年代から爆発的に進歩した分子生物学が追い風になる。分子生物学の研究対象は、がんにもおよび、がんは遺伝子の異常によって発症することが次第に明らかになっていく。その過程において、いくつものがん遺伝子-がんを引き起こす原因になる遺伝子-が同定されたのだが、そのひとつに、マウスに白血病をひきおこすabl(エイブルと発音する)という遺伝子があった。そして1983年、フィラデルフィア染色体の生物学的意義を明らかにする決定的な成果が発表された。

フィラデルフィア染色体は、22番染色体にあるbcr遺伝子と9番染色体にあるabl遺伝子の部位における転座であること、そして、この転座によって、正常な細胞では存在しないBCRタンパクとABLタンパクが融合したBCR/ABLタンパクが作られることが報告されたのである。abl遺伝子に由来するABLタンパクがネズミで白血病を発症させるのだから、CMLの患者にのみ存在するBCR/ABLがヒトでも白血病を引き起こす原因である可能性はきわめて高い。そして、実際にそのことが証明された。

このような、四半世紀にわたる、たくさんのとびっきり優秀な研究者たちによるフィラデルフィア染色体の本態についての研究がこの本の前半である。まるで医学研究のお手本を見るようで、ほれぼれするほどだ。ちょっと難しすぎる、と思われるかもしれないが、できるだけ専門用語を使わず、それでいて正確さを損なわずに、経緯が詳細にたどられているので、基礎知識がなくとも十分に理解できる。

フィラデルフィア染色体研究の歴史を読んでもらえるとわかるのだが、医学研究において使われるロジックは難しいものではない。気の利いたこどもでもわかる三段論法程度である。そのシンプルなロジックはCMLに対する薬剤開発の着想にもあてはまる。BCR/ABLがCMLの原因であり、BCR/ABLはCMLの患者にしか存在しない、となれば、BCR/ABLを特異的に阻害する物質を投与すれば治療できるのではないか、ということになる。そして、実際にそのような化合物が作られた。

いまや、BCR/ABLを分子標的にするCMLの特効薬、イマチニブ(商品名グリベック)は広く使われており、その年間売上高が一千億円以上を超えるブロックバスターだ。効果の原理が単純にして明確、そして巨額の売り上げなのだから、その開発をめぐるこの本の後半は順風満帆の物語と思われるかもしれない。しかし、実際にはいくつもの大きな障害があった。ブライアン・ドラッカーという心優しき血液学者の執念がなければ、その開発は大幅に遅れていたはずだ。

CMLは年間発症者が10万人に1人程度と比較的まれな疾患であるから、たとえ治療効果があったとしても開発費を回収できないのではないか。イヌを用いた初期の動物実験で毒性が認められたので、安全性に問題があるのではないか。などという難題がもちあがる。しかし、研究室でイマチニブの画期的な効果を目の当たりにしていたドラッカーはひるまなかった。粘り強く働きかけ、第Ⅰ相臨床試験にこぎつける。

第Ⅰ相試験というのは、薬剤を実際にヒトに投与するのであるが、効果を調べるものではない。あくまでも、ヒトに毒性をもたらさないことを確かめるためのものである。しかし、ドラッカーがにらんだとおり、ごく少人数のCML患者に投与しただけで、たいした副作用がなく、画期的な効果をもたらすことが明らかになった。

時は1998年、多くの人がインターネットを使い出したころだ。イマチニブのことが、CML患者のネットワークにとりあげられ、治験に参加したいという患者が殺到する。当然だろう。命にかかわるのに有効な治療法がない自分の病気に画期的なお薬が出現したのだから。以後、十分な量の薬剤を準備するのに手間取ったなどの問題があったものの、最終的には、その効果の素晴らしさと患者たちの強い要望により、希に見る迅速さで認可された。

前半は学術的な内容で、読めば基礎研究の面白さと難しさがよくわかる。そこでしっかりお勉強をしておくと、後半の薬剤開発ストーリーでは、ジェットコースターに乗っているような爽快感が味わえる。一冊で二つの楽しみ方ができるお得感がいっぱいの本だ。

いまや、先進国では、BCR/ABL陽性のCML患者はすべてイマチニブの恩恵をうけるようになっていると言っていいだろう。しかし、問題がない訳ではない。この薬によって白血病細胞をほぼゼロになるけれども完全にはなくならない。だから、ずっと飲み続けなければならない。それくらいいいだろうと思われるかもしれないが、費用が半端ではない。アメリカでは年間の薬代が7万ドル(日本では少し安くて4~500万円)もかかるのだ。

もうひとつ、耐性の問題がある。CMLに限らず、難儀なことに悪性腫瘍の細胞はすべからく「進化」していく。CMLの細胞も例外ではなく、進化してあらたな突然変異をおこし、イマチニブが効かなくなることがある。ただし、現在では、そのように進化したCML細胞に対する薬剤も開発されている。

イマチニブのようなすぐれた薬剤であっても、いくつかの問題をはらんでいるということを忘れてはならない。また、イマチニブ以後の「分子標的療法」薬剤を見ていると、これほど画期的な抗がん剤というのは、むしろ例外的なものと考えたほうがいいようだ。そういったことをふまえつつも、医学の進歩というのがいかに素晴らしいか、そして、ひとつの薬剤が世に出るにはいかに多くの努力が伴うか、を知るのに格好の一冊だ。 

病の皇帝「がん」に挑む ― 人類4000年の苦闘 上
作者:シッダールタ・ムカジー 翻訳:田中文
出版社:早川書房
発売日:2013-08-23
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病の皇帝「がん」に挑む ―  人類4000年の苦闘 下
作者:シッダールタ・ムカジー 翻訳:田中文
出版社:早川書房
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がんの歴史となるとこの本しかありません!もちろんフィラデルフィア染色体からイマチニブ開発の話も出てきます。レビューはこちら。
 

サルファ剤、忘れられた奇跡 - 世界を変えたナチスの薬と医師ゲルハルト・ドーマクの物語
作者:トーマス・へイガー 翻訳:小林 力
出版社:中央公論新社
発売日:2013-03-08
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病原性細菌に対する画期的な薬、サルファ剤の物語。レビューはこちら
 

大村智 - 2億人を病魔から守った化学者
作者:馬場 錬成
出版社:中央公論新社
発売日:2012-02-09
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日本発の画期的な抗寄生虫薬を開発した大村智の伝記。レビューはこちら

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