歴史をかえた魔法の弾丸 『サルファ剤、忘れられた奇跡』

仲野 徹2013年03月31日 印刷向け表示
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サルファ剤、忘れられた奇跡 - 世界を変えたナチスの薬と医師ゲルハルト・ドーマクの物語
作者:トーマス・へイガー
出版社:中央公論新社
発売日:2013-03-08
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生命科学や医学の領域では、物理学や数学のように天才は多くない。しかし、遺伝の法則を見つけ出したグレゴール・ヨハン・メンデルや、進化論を唱えたチャールズ・ロバート・ダーウィンは、まぎれもない天才だ。メンデルとダーウィンは、19世紀の中盤から終盤にかけて、その天才的な洞察力を発揮した。

この二人とほぼ同時代に活躍したルイ・パスツール、それに少し遅れたロベルト・コッホ、という仏独のライバルも、『微生物の狩人』黎明期における天才だ。そのコッホの弟子、パウル・エールリッヒという名をご存知だろうか。パスツールやコッホに劣らず、いや、独創性を天才の指標とするならば、その二人よりも一段上といってよいほどの天才なのである。

プロシアにおいて化学工業が隆盛を迎えた時代、エールリッヒは、細胞を『染める』ということを思いつく。細胞というのは、おおむね透明に近い。染色することによって、内部構造をふくめ、詳細な観察が可能になると考え、実際におおきな業績をあげた。しかし、エールリッヒの思考はそこにとどまらなかった。

いろいろな染料には、ある臓器の細胞だけを染めるとか、ある特定の病原微生物を染めるとかいった特異性がある。もしかすると、その特異性を利用して、病原微生物のみを殺す化学物質、すなわち『魔法の弾丸』を探し出すことができるのではないか、と、まで、エールリッヒの『妄想』はふくらんだのだ。生薬から単離されたキニーネ以外、そのような物質が全く知られていなかった時代、ぶっちぎりの独創性をもつ発想であった。

単なる着想だけなら、妄想と片付けられてしまうところだ。しかし、天才エールリッヒは違う。その考えに沿った研究を開始し、不治の病であった梅毒の治療薬についてのスクリーニングをおこなった。そして、弟子であった秦佐八郎が606号(サルバルサン)という駆梅薬を発見したのである。しかし、それで終わってしまった。その後、20年以上にわたって、エールリッヒの独創的な考えに基づく薬剤探索は成果を生み出さなかった。そして、ほとんどの会社は、当然のようにその戦略をあきらめていった。

第一次世界大戦後の経済状態が悪い中、唯一、その半ば見捨てられた創薬戦略を継続していた会社があった。それが、ドイツの化学産業を振興させるためにつくられたトラスト『IGファルベン』である。いまではポーランドの一部になっているドイツ東部出身の医師ゲルハルト・ドーマクは、その研究チームに参加する。決して、その戦略に魅せられたから、という訳ではない。病理医として貧しい生活にピリオドをうちたかった、というのが正直なところであった。しかし、そのドーマクが、天才・エールリッヒのアイデアを甦らせることになる。

衛生兵として第一次世界大戦に参戦していたドーマクは、戦場において、傷口から進入した細菌により命を落とす兵士たちをいやというほど見ていた。その多くは、連鎖球菌-ありふれた細菌で敗血症や扁桃腺炎などを引き起こす-によるものであった。IGファルベンに入社したドーマクは、その溶連菌感染に対する『魔弾』の探索にたずさわることになった。

ドーマクは、研究において優れた能力を発揮する。スーパー連鎖球菌とでもよぶべき毒性の高い細菌を単離し、その細菌を感染させたマウスに、化学者チームが合成した物質を投与し、その効果を次々と判定していった。効果がありそうな化学物質にいろいろな修飾が付加され、最終的に、治療効果が抜群のアゾ色素、真っ赤な薬剤であるプロントジルが著効を発揮することを発見した。

結果オーライではあったのだが、ドーマクたちのチームは、プロントジルのどの化学構造が抗菌作用に重要であるかについて、まったく誤った解釈をしていた。そして、その間違いに気づいたのは、なんと、過去の、そして、将来の敵国であるフランスのチームであった。後から考えると、どうしてドイツチームの誰もがそのような簡単なことに気づかなかったのか、不思議でしかたがない。しかし、優秀な科学者たちにとっても、先入観というのは、それほど大きいものなのだ。

ドイツチームのうけた打撃は大きかった。その情報がフランスからもたらされてから2年もの間、おもてだった反応をまったく示さなかったというのが、その衝撃の大きさを物語っている。しかし、フランスチームが効果ありとした化学物質は、あまりに構造が単純で、特許をとることすら困難であった。そのことを逆手にとり、ドイツチームは、たくみな特許戦略・宣伝戦略を展開して多大な利益をあげていく。

プロントジルを嚆矢として開発された抗菌性薬剤-いろいろな誘導体もふくめてサルファ剤と総称される-の効果は抜群であった。最初に試されたドーマクの愛娘を皮切りに、有名、無名をとわず、数多くの人の命を次々と救っていった。第二次世界大戦中の敵国首相ウィンストン・チャーチルの命も、その一つであった。ペニシリンがチャーチルの命を救ったという話が広まっているが、実際にはサルファ剤の誤りである。もし、敵国の科学者ドーマクたちがサルファ剤を開発していなかったら、チャーチルは1942年に間違いなく落命し、大戦後の世界はいまと違った姿を見せていたはずだ。

新大陸でもサルファ剤はひろく受け入れられた。しかし、あまりに広く使われたがための悲劇、サルファ剤そのものではなくてサルファ剤を飲みやすくするために混合された物質による死亡事故があいつぎ、何十人もの命が奪われた。そして、この薬禍が、FDA(米国食品医薬品局)の設置をもたらし、薬剤の効果や副作用についての認可制度へと発展していったのである。

サルファ剤がひきおこした悲劇は薬禍だけではない。ナチスの強制収容所において、サルファ剤の薬効を確認するための人体実験がおこなわれ、多くの人を傷つけ、多くの人命を奪った。1939年、ドーマクは『プロントジルの抗菌効果の発見』でノーベル賞に輝くのであるが、その受賞はナチスによって拒否され、実際に賞を受け取ったのは、第二次世界大戦が終了した後、1947年になってからであった。

それほど偉大な薬なのに、サルファ剤などというのは聞いたことがない、と、不思議に思われる方もおられるかもしれない。それもそのはず、現在ではほとんど使われることがない薬なのだ。理由は大きく二つ。構造が単純であるがために、耐性菌ができやすかったこと。そして、それ以上に、ペニシリンをはじめとする多くの抗生物質が開発されたこと、にある。しかし、その歴史的役割はきわめて大きなものであった。

タイトルに『奇跡の薬』とあるのは、その発見や薬効が奇跡的であっただけではない。創薬の方向性を決定づけ、特許戦略のありかたに影響を与え、悲劇をのりこえてFDA設置を促し、さらには、歴史をも変えた。これらの奇跡的な影響をも含意しているのだ。サルファ剤の歴史は、きわめて多方面において、実に多くの示唆をあたえてくれる。医学や薬剤に少しでも興味がある人にとって、これほど読み応えと含蓄のある本はない。

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微生物の狩人 上 (岩波文庫 青 928-1)
作者:ポール・ド・クライフ
出版社:岩波書店
発売日:1980-11-16
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生命科学ノンフィクションの古典、名著中の名著。岩波書店は、この本を入手可能にする社会的責任があるとまで思う。

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チャーチルの亡霊: ――危機のEU (文春新書)
作者:前田 洋平
出版社:文藝春秋
発売日:2012-06-20
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クーデンホーフ・ミツコの主人で『欧州連合』の理念をうちだしたクーデンホーフ男爵とチャーチルの確執。サルファ剤がなかったら、EUのあり方もちがっていたはず。

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ビッグ・ファーマ―製薬会社の真実
作者:マーシャ・エンジェル
出版社:篠原出版新社
発売日:2005-11
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現在の医薬品業界の限界と問題を、世界一の医学雑誌NEJMの元編集長が解説する。読み応えあり。

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