新装復刊『大気を変える錬金術』 世界を変えた化学

2017年9月22日 印刷向け表示
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大気を変える錬金術 新装版

作者:トーマス・ヘイガー 翻訳:渡会圭子
出版社:みすず書房
発売日:2017-09-08
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歴史上もっとも人口の増加に貢献した科学的発明は何か?それは、多くの病気から命を救った医薬品でも、世界中のあらゆる地域へ人類を移動させた航海技術でも、機械化による効率化をもたらした産業革命でもない。もちろん、これらの発明も多くの命を支えており、現代生活に欠かせないものではあるが、その発明のおかげでこの世に存在している人命の数では、ハーバー・ボッシュ法には及ばない。この「空気をパンに変える」技術であるハーバー・ボッシュ法がなければ、地球の人口は現在の70億超の半数程度が限界だったはずだ。

この本は、化学史上最大の発明と呼ばれるハーバー・ボッシュ法がどのように生み出されたか、2度の大戦に見舞われた20世紀前半の世界で化学がどのような役割を果たしたかを、世紀の発明をもたらした2人の天才フリッツ・ハーバーとカール・ボッシュの人生を軸として描き出す。特にハーバーの人生には、1人の人間が一生の間に経験可能とは思えないほどの成功と失敗、栄光と挫折がこれでもかと詰め込まれている。ハーバーが何者であるか、とても一言では言い切れない。彼は、ハーバー・ボッシュ法の功績以外にも、第一次大戦時にドイツ帝国中枢で毒ガス開発を主導したことでも知られ、ユダヤ人であるにも関わらずユダヤ教を捨てドイツに仕えようとしていた。この男の生きざまを追うだけでも、あなたの好奇心は刺激され続けるはずだ。

本書は2010年5月に出版されたものの新装復刊版だ。フリーランスライターである著者は、世界初の抗菌薬誕生を描いた『サルファ剤、忘れられた奇跡』等の著作でも見られる通り、新たな科学の誕生とそれに連なる世界の変化を多角的な角度から巧みに描き出す。『大気を変える錬金術』も、2人の天才の伝記、科学的イノベーションが世界を変えていく革新の物語、または化学産業の勃興史としても読むことができる。

19世紀末、人類は大きな危機に直面していた。衛生状態の向上、医療技術の発達や産業革命により人口は増加の一途だったにも関わらず、食物生産量が減少し始めていたのである。その延長線上には、避けられない集団的な飢餓の発生が確かにあった。これまで人類は、同様の危機をアメリカやオーストラリアなどで新たな耕作地を見つけることで、なんとか回避してきた。しかし、十分に地球の調査が進んでしまったこの時点では、更なる新大陸の発見は期待できなかった。輪作などの農業技術上の工夫も十分ではなく、既存の耕作地は痩せていく一方。八方ふさがりの状況を打破する方法が一つだけ存在した。それは、既存の耕作地の生産性を急増させるような、人口肥料の開発である。

1898年の英国科学アカデミー会長就任演説でサー・ウィリアム・クルックスは、化学的肥料の生産方法の発見が人類の未来にとってどれほど重要であるか、以下のように聴衆に語りかけた。

人類を飢えから救うのは化学者である……われわれが死に直面する前に、化学者の働きによって世界的な飢饉の時代は先延ばしされ、われわれの息子や孫たちは、将来を過度に心配することなく生きられるようになるだろう

化学肥料の生産で鍵を握るのは、窒素である。窒素はほとんどの作物にとって最も重要な元素であり、窒素量が多ければ収穫量は多くなる。窒素は大気の80%を占めるほどにありふれた元素であるが、大気中の窒素はN2という気体状で存在しており、N2のままでは植物は窒素を利用することができない。植物が窒素を利用するためには、窒素を固体か液体として存在する固定窒素という形態に変換する必要がある。固定窒素はグアノ(鳥糞石)や硝石のように自然界にも存在し、それまでも肥料として用いられてきた。しかし、その絶対量は多くはなく、所有権をめぐった争いはときに戦争にまで発展している。本書では、人口肥料誕生までに、人類がどのように固定窒素を求めて競い合ったかという歴史も語られている。

豊富なN2をアンモニア(NH3)のような固定窒素へ変換するさいに問題となるのは、N2が非常に安定で、この2つの原子を分離することが非常に困難だということ。自然界でこのN2分子を破壊できるのが稲妻だけであるといえば、その工程にどれ程のエネルギーが必要かが理解できるだろう。もちろん、温度を上げていけば1000℃程度でN2分子の結合を解き放つことができるのだが、それは銅をも溶かす温度であり、こんな高温ではアンモニアは生成した途端に破壊されてしまう。

この難題に1つの解をもたらしたのが、ドイツ東部に生まれたユダヤ人フリッツ・ハーバーである。ハーバーは天才的な科学者であるが、彼の思考や行動は、世間一般が持ついわゆる「科学者」のイメージとは大きく異なる。彼の友人は「ハーバー氏はせわしなく、強引な男です」とハーバーを評している。窒素固定の研究にある程度の目途をつけたハーバーは、更なる研究資金と将来得られるはずのこの研究による利益を手に入れるため当時ドイツ最大の化学会社だったBASFへ手紙を送った。彼が並みの科学者と異なっていたのは、同時にライバル会社のヘキストにもアイディアを売り込み、BASFから破格の好条件を手に入れていたところにある。

BASFとの契約は予期せぬ幸運をハーバーにもたらす。そこには、何よりも機械いじりが好きな天才エンジニアであるカール・ボッシュがいたのだ。ハーバーが研究室で生み出したアイディアを工場規模で現実のものとするために、新たな難関を乗り越える必要があった。それは、窒素固定の過程で必要となる並外れた高温高圧という条件である。あまりに過酷な条件は、常に爆発の危険性と隣り合わせだった。高温高圧化で水素が炭素鋼に入り込んでしまうという課題を克服するためにボッシュが思いついたアイディアは、見事というほかない。本書では、その発明の過程が詳細に描写されており、新たな発見に伴う興奮を追体験できる。

1913年にオッパウ工場でBASFがアンモニアの大量生産を始めるころ、戦争の影がドイツに忍び寄っていった。そして、ハーバーとボッシュによって発明された技術は戦争へと駆り出されていくこととなる。ハーバー・ボッシュ法によって爆薬製造に必要な硝酸塩が生産されていなければ、第一次世界大戦は1~2年は早く終結していたという歴史家もいる。ハーバーは自らの意思で戦争の荒波に飛び込んでいき、ボッシュもその影響から無関係でいられなかった。この戦争がなければ、この2人はどれほどのものを生み出していたのか、と想像せずにはいられない。新たな科学は社会を不可逆に、かつ劇的に変化させた。科学と社会の在り方を考えさせる一冊である。

ハーバー・ボッシュ法でも重要な役割を果たしている触媒が、分子レベルでどのような機能を果たしているかを分かりやすく解説している一冊。ハーバー・ボッシュ法のすごさが改めてよくわかる。レビューはこちら

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出版社:中央公論新社
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決定版-HONZが選んだノンフィクション (単行本)
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出版社:中央公論新社
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