『脳はすごい』としか言いようのない『ある人工知能研究者の脳損傷体験記』

仲野 徹2015年10月14日 印刷向け表示
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脳はすごい -ある人工知能研究者の脳損傷体験記-
作者:クラーク・エリオット 翻訳:高橋洋
出版社:青土社
発売日:2015-09-25
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自動車の追突事故。幸いなことに外傷はなく、CTスキャンなどの検査でも異常は認められなかった。しかし、さまざまな神経障害で生活に大きな支障をきたす外傷性能損傷(脳震盪症)患者となった著者・クラーク・エリオットは人工知能を専門とする大学教授。ほんとうにそんなことがあるのかと思えるほどに複雑な症状だ。つらかっただろうに、よく自らの症状をこれだけ克明に記録したものだ。

典型的な症状は、考えることができなくなったり、意思決定ができなくなったりすることだ。と聞いても、どういうことかわからないだろう。たとえば、リンゴとサラミをまな板の上に置いて切ろうとする。なんら意識することなく、どちらかから切ればいいのである。ところがエリオットにはそれができない。このことは、日常的に無意識におこなっている、と思えるようなことにも意思決定という過程がバックに必要であることを示している。

『ときに私の症状は、はなはだ滑稽な状況をもたらし、一種の体を張ったジョークを演出することがある』と書いているだけのことはある。『脳のバッテリー』を使い切ってしまったような時、『ルール追従モード』と呼ぶ状態にはいってしまうことがある。レストランの看板の「どうぞお入りください」という言葉に拘束されてしまった時のエピソードがその好例だ。

その看板が、レストランによる客集めのためのものであって、書いてあるからといって入る必要がないことはわかる。そして、そのレストランには全く入りたくないという気持ちも強い。にもかかわらず、その言葉に従って、その店に向かう以外には一歩も足を踏み出せなくなってしまう。いっしょにいた親友のジェイクがあきれて怒り出すのも当然だ。ここまでいけばまるでコントだ。

笑い事ですまないこともある。雪のシカゴで、研究室から駐車場の自動車にたどりつく途中で調子が悪くなり、あわや凍死しかけたこともある。自分がどこにいるか全くわからなくなってしまって、ジェイクに電話をして尋ねたこともある。他にも、東西南北の感覚がなくなる、ちゃんと目が見えているのに広く全体を見渡すことができなくなる、カレンダーをみて計画をたてることができなくなる、ジョークが理解できなくなる、などなど、さまざまな困難が立ち上がる。眠ろうとして目を閉じると吐き気がして眠れなくなるので、目をあいたまま寝るようにしたなどというのは気の毒すぎる。

調子のいい日と悪い日がある。それはエリオットが言うところの『脳のバッテリー』の状態によるらしい。正常人に比べると、そのバッテリーへの充電がうまくいかなくなっていて、脳を使いすぎると、バッテリーがカラになってどうしようもなくなるというのだ。そして、それは吐き気や筋肉痛という身体症状につながる。さらには、自分ではちゃんとやっているつもりなのに、酔っ払っているのかドラッグをやっているのかと疑われたりして、周囲に対する罪悪感がわいてくる。

医師を訪ね歩くが、症状を聞くだけで、まったく理解してもらえない。なにしろ、目に見えるような異常がなく、自覚症状だけなのだ。脳のどこが悪いのかわからない。エリオットは人工知能の研究者だけあって、その立場から自分の症状を詳細に考える。人間の脳をシミュレートするのに五千万台のデスクトップコンピューターが必要であるとする。脳震盪によってそのうちの何十万台かが破壊されたような状況になってしまっているのではないかと。そのたとえが本当に正しいのかどうかはわからないが、なんとなく納得できる説明だ。

症状の記載を読んだだけで、人間の脳というのが、いかに複雑なものかがよくわかる。なにげなく当たり前にやっていることにも高次な脳機能が必要なのだ。明瞭な損傷部位がわからな程度の損傷であるもかかわらず、実に多彩な高次神経能力の異常が生じるのである。おそらく、いろいろな脳機能というのは複雑にワイアリングされていて、特定の部位がいくつもの高次神経機能に関係しているということだ。ここまででも、脳がすごいということが十分にわかる。

しかし、驚くのはまだ早い。成人してからも脳には可塑性があることが知られている。その可塑性を活用することによって、これらの症状をなくすことができたのだ。8年もの間、悩まされ続けた奇妙で複雑な症状。もう治ることはないと思っていたエリオットだが、いまは正常な状態にもどっている。

それには二人のエキスパートによる治療があった。一人は『違った方法で世界を見、思考することができるよう脳を配線し直す』認知再構成法の専門家である。その方法をつかって、脳を使う時に、いたんだ部位を回避させて、正常な部位を使えるようにする。デスクトップコンピューターのたとえでいくと、壊れたコンピューターへの回線を使わないようにして、いたんでいないコンピューターへの回線に組み替えるかのように。

もう一人は、ニューロオプトメトリック・リハビリテーションを重視する検眼医。といっても、聞いたことのない言葉で何のことがわからないが、『視覚システムと脳の機能の相互作用、および人間を人間たらしめている高次の処理と視空間機能の統合』に重きを置いた治療をおこなう医師らしい。とんでもなく専門性の高い医師だ。エリオットの症状が、視覚と身体感覚のずれなど、視覚に大きく関係していることから、この治療も必要であった。

どちらも、それほど複雑な治療法ではない。前者は、ランダムに打たれたように見えるドットから特定の図形パターンを見つけるといったトレーニング、後者は、特殊なプリズムを使った眼鏡をかけて、ものの「見え方」をゆがめるといった方法である。とりわけ後者の効果はてきめんであった。極めて短期間に驚くべき変化があった。それは、と、びっくりの内容を書きたいところだが、内緒。この本でいちばん驚くべきところは、その効果のところなので、読んでのお楽しみということに。

目に見えるような大きな損傷でなくとも、多彩な症状が出る。そして、その症状は、適切なトレーニングで治療できる。それだけではない。エリオットは、いろいろな症状に悩んでいた時でさえ、大学教授の仕事をこなし、シングルファーザーとして幼子を育てていた。いやはや、脳というのはどれだけよくできているのだ。

ただし、ひとつだけ付記すべきことがある。エリオットの例は、非常に特殊な例である可能性があることだ。IQが非常に高く、中学生時代には大学で数学の講義を聴いていたような賢さであり、同時に、視覚的な認識能が非常に高い、さらには音楽の才能にも優れている、など、ちょっとしたスーパーマンなのである。だからこそ、このような複雑な症状が生じた可能性があるし、また、治療が成功した可能性もあるのだ。

だからといって、この本の面白さがそこなわれるわけではない。一人の人間の脳が、これだけの複雑性と神秘と計り知れない能力を抱え込んでいるのは紛れもない事実なのだ。『脳はすごい』以外にそれをあらわす言葉があるだろうか。  

奇跡の脳―脳科学者の脳が壊れたとき (新潮文庫)
作者:ジル・ボルト テイラー 翻訳:竹内 薫
出版社:新潮社
発売日:2012-03-28
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脳出血になった神経科学者の体験記。自己と外界の境界がなくなるなど、信じられないことが克明に記録されている。

妻を帽子とまちがえた男 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
作者:オリヴァー サックス 翻訳:高見 幸郎
出版社:早川書房
発売日:2009-07-05
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ご存じ、サックス先生の名著。神経疾患の患者さんたちから、脳の複雑さが浮き彫りにされる。

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ノンフィクションはこれを読め!  2014 - HONZが選んだ100冊
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出版社:中央公論新社
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