『南シナ海 アジアの覇権をめぐる闘争史』 アジアの行く末を握る場所

村上 浩2016年01月22日 印刷向け表示
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南シナ海: アジアの覇権をめぐる闘争史
作者:ビル ヘイトン 翻訳:安原 和見
出版社:河出書房新社
発売日:2015-12-25
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 南シナ海を舞台とした事件を伝えるニュースは後を絶たないが、その全体像はなかなか見えてこない。なぜ東南アジア諸国はこの地で争い続けているのか、各国が求めているものは何なのか、それぞれの主張はどうしてこれほど食い違っているのか。複雑に絡み合った各々の思惑と過去の記憶が、解決への道はもちろん、状況を把握することすら困難なものにしている。

マスコミが繰り返し報じている内容には間違いも多いという。なにしろ、南シナ海に関する重要な文章の多くはわずか2つの論文を出典としているものばかりで、その2つの論文が歴史的立脚点としているのは中国が自身の侵攻を正当化するために作成した記事に過ぎないのだ。世界の貿易の半数以上がマラッカ海峡を通じて行われる今こそ、世界貿易の要所である南シナ海の真の姿を知る必要がある。

そこで争われているものは、海中に眠っている天然資源であり、拭い去りがたい過去の歴史であり、解釈に幅のある国際法であり、国家のプライドでもある。南シナ海には、国家と国家が揉めごとを起こすために必要な要素の全てが詰め込まれているのではないかと思われるほど、争点の数は限りがない。さらにこの海の利害関係者を考えれば、中国、フィリピン、マレーシア、ベトナムなどの歴史的領有権主張国に限らず、南シナ海を通過して輸入される天然ガスがなければ明かりを灯すこともできない日本やアジアへの「リバランス」を目指すアメリカまでもが含まれるのだから、すべての国が納得する1つの解決方法などあろうはずがない。

BBCなどで活躍したジャーナリストである著者は膨大な資料調査と現地での取材を基に、歴史、経済、国際法、政治、軍事など多角的な視点から複雑に絡み合った事態を少しずつ解きほぐしていく。状況を詳細に描写するテンションの高い筆致でこれでもかと情報が詰め込まれているので読み進めるのにはかなりの集中力を要するが、あっと驚く事件やヒリヒリする駆け引きの連続なので最後まで飽きることはない。

混迷を極める現状を前にして、著者は先ず時計の針を先史時代にまで巻き戻す。かすかな手がかりをもとに、出アフリカを果たした人類がどのように南シナ海にたどり着き、どのような生活を送っていたのかを追いかけていくことで、現在様々に主張されている「歴史的権利」がどれほどあやふやなものであるかが明らかになっていく。

考古学的証拠に基づいて確かめられる、紀元前の時点で南シナ海の島々を発見していた人々の姿はあまりにも意外である。彼らは陸地に拠点を持たず、つまりどのような国の国民でもなく、民族的なアイデンティティも持ちあわせていなかったという。一方、中国外交部がウェブサイトで主張している後漢時代からの南沙諸島との関わりは考古学的証拠に乏しく、中国の船が南シナ海を航海したという確かな記録が現れるのはやっと10世紀に入ってからだ。

歴史認識だけでなく、言語が事態をややこしくしてしまっているケースすら有る。日本などが南シナ海の島々での権利を主張し始めていた1930年代に、中国政府は地図製作に力を注いだ。南シナ海にある132の島嶼に中国式の名前をつけて、それらが正統な中国領土であることを宣言しようとしていたのだ。ところが、その132の島嶼リストは中国自身が集めたものではなく、航海用の海図に示された西欧名の音訳または翻訳に過ぎないものであった。例えば、ジェームズ礁は曾母灘という音訳が中国名とされている。ここで問題となるのは礁(Shoal)は水中にある海底がせり上がっている場所を指す言葉であり、灘は水上を指す言葉だということ。事実、ジェームズ礁は海面下22メートルにあり領有権を主張できるような場所ではないのだ。著者は、「南シナ海における中国の領有権の主張は、ある程度まで誤訳に基いていると言える」と示唆している。

このような多国間のトラブルを解決するために国際法があるではないか、と思うかもしれない。しかしながら、南シナ海では2つの異なる法体系(ひとつは領有の歴史的根拠を規定する古い法体系、もうひとつは国連海洋法条約で定められた法体系)が衝突してしまうのだ。本書では、これらの法体系がどのような歴史的、また思想的背景から生み出されたのか、そしてもし実際に国際司法裁判所で司法の手に判断を委ねようとしてときにどのような問題点が浮かび上がってくるかも詳細に議論されている。

状況がこれほどこじれてしまったのは、1529年にヨーロッパの帝国が勝手に東南アジアの分割を決めてしまったサラゴサ条約も無関係ではない。天然資源をめぐる国際企業の活動ももちろん大きく関係がある(現在の専門家たちの共通見解では、係争地域には大した石油ガスは埋まっていないようではあるが)。あらゆる角度から南シナ海を見つめた著者は本書の執筆を終えるころ、近い将来に大きな衝突は起こらない、という思いを強くしたという。それは中国指導部が、南シナ海における大規模な兵器を用いた戦争で得られるものは、失うものより遥かに小さいことを理解していると確信したからだ。もちろん著者も、大きな衝突へ至る可能性を完全に否定しているわけではない。トラブルの芽が完全に摘み取られる可能性もまた小さいのだ。

歴史的視点に立ち、多角的に南シナ海を見つめることで、アジアの、世界が進んでいく方向を見据えるための新たなヒントを与えてくれる一冊である。

キューバ危機 - ミラー・イメージングの罠
作者:デイヴィッド・A・ウェルチ 翻訳:田所 昌幸
出版社:中央公論新社
発売日:2015-04-24
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人類が絶滅に最も近づいたというキューバ危機は、どのようにもたらされ、どのように回避されたのか。当時の様子をエキサイティングに、かつ簡潔に描き出す。レビューはこちら

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作者:フレドリック スタントン 翻訳:佐藤 友紀
出版社:原書房
発売日:2013-03
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南シナ海 中国海洋覇権の野望
作者:ロバート.D・カプラン 翻訳:奥山 真司
出版社:講談社
発売日:2014-10-24
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