『脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線』 訳者あとがき

紀伊國屋書店2016年07月01日 印刷向け表示
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脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線
作者:ノーマン ドイジ 翻訳:高橋 洋
出版社:紀伊國屋書店
発売日:2016-06-30
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本書は The Brain’s Way of Healing: Remarkable Discoveries and Recoveries from the Frontiers of Neuroplasticity (Viking, 2015)の全訳である。19か国で翻訳され、累計100万部以上を売った前作『脳は奇跡を起こす』(竹迫仁子訳、講談社インターナショナル、2008年、原書は2007年刊)以来待望されていた本書も諸方面から絶賛され、早々にニューヨーク・タイムズ・ベストセラー入りを果たした。

著者のノーマン・ドイジはカナダ・トロント在住の著名な精神科医で、テレビやラジオへの出演も多く、国内外で数々の講演を行なっている。ドイジは古典と哲学を専攻したのち、コロンビア大学で精神医学と精神分析学を学んだ。詩人でもあり、『批評の解剖』で知られる文芸評論家ノースロップ・フライに認められた経歴を持ち、彼の文芸的な才能は、ストーリー中心の本書でも遺憾なく発揮されている。

本書『脳はいかに治癒をもたらすか』は前作と同様、「神経可塑性(Neuroplasticity)」という脳の持つ特質を巧みに引き出す治療に関して、ときに理論的な説明を織り交ぜながらさまざまな治癒のエピソードを紹介し、その実像を浮き彫りにしていくという手法をとっている。理論的な説明に終始する短い第3章を除けば、たとえば第1章は視覚化を用いた慢性疼痛の治療などといったように、各章において、特定の形態の神経可塑性を利用した治療が豊富なエピソードを通じて紹介されている。そのため内容がきわめて具体的であり、専門知識を持たない読者にも非常に読みやすい本に仕上がっている。

外部からエネルギーを加えるなどの手段を通じて、脳のニューロンにおける配線の様態を変え、それによって治癒を促進するという神経可塑性を用いた治療は、一般の人々の目には非常に新しく映るはずだ。理論的な基盤はかなり以前から知られていたとはいえ、現実的な治療の手段として主流の医学界からも認められ、注目され始めたのはつい最近のことにすぎない。したがって本書で取り上げられている治療は、まさしく最先端の治療法だと言える。

ただ、最新の治療ではあっても、必ずしも高価な医療機器が必要なわけではなく、たとえば第2章で取り上げられているパーキンソン病の治療の例のように、「歩行」という単純な手段によってもその効力を発揮することができる。つまりその気になれば誰でも実践できるものもある。さらに言えば、本書で取り上げられている治療の事例は、通常の医療基準からするとかなり新奇なものが多い。たとえば視覚化による慢性疼痛の治療(第1章)、低強度レーザーによる脳損傷の治療(第4章)、PoNSと呼ばれる舌に刺激を与える小さな装置を用いた多発性硬化症、外傷性脳損傷などの治療(第7章)、音、音楽、音声を用いたさまざまな疾病の治療(第8章)などである。

こう書いていると、「この本は、科学的根拠のない代替療法を紹介する怪しげな代物なのではないのか?」と疑う向きもあるかもしれない。しかし本書は、神経可塑性に関する理論的な説明はもちろんのこと、おのおのの治療の基盤となる生理学的理論や、実験の結果に基づく科学的な根拠を逐一説明しており、煽情的な効果を狙ったいわゆるトンデモ科学の本とはまったく異なる。

とはいえ、このような新奇なテーマを扱うにあたっては、伝統的な科学や医学の見方にとらわれない開かれた心が必要になることも確かである。その点に関して言えば、著者のドイジはまさに適任と言えるだろう。彼は基本的には精神分析医であり、実践的な臨床活動を本業にしている。したがって科学者としての視点のみならず、医療の実践者としての視点も十全に備えている。第2章などに見られる、従来の医療のあり方にもの申す姿勢は、硬直した医療のあり方を変えたいと願う彼の心構えの如実な現われであると見なすこともできよう。

著者は東洋医学にも通じているようで、中国の気功への言及なども見られる。とりわけ英米の医学研究者のあいだでは、気功などの東洋医学はプラシーボ効果以上の有効性を持たず、「スネーク・オイル・サイエンス」(インチキ科学)以外の何ものでもないとして片付けられる場合が多いようだ。典型的には、アメリカの生物統計学者 R・バーカー・バウセルの書いたSnake Oil Science: The Truth About Complementary and Alternative Medicine (Oxford University Press, 2007)などに見られる。

しかしドイジは、その種の否定的な態度は取らない。それどころか彼は、次のように述べさえする。「心身医療を実践もしくは研究する臨床医や科学者は、プラシーボ効果の基盤をなす脳の神経回路を系統的に活性化する方法を考案できれば、劇的な医学的進歩を遂げられると主張する(58頁)」「プラシーボ効果による治癒は、投薬による治癒より<非現実的>というわけではない。それは、心が脳の構造を変えるという、神経可塑性の作用の一例なのである(58頁)」。訳者は気功に関して科学的な見解を述べられる立場にはないが、これらの引用によってわかるのは、著者が従来の医学の枠に拘泥することのない柔軟な思考様式を持っているということである。ではなぜ、神経可塑性治療には、そのような思考様式が必要になるのか?

訳者は昨年、クラーク・エリオット著『脳はすごい——ある人工知能研究者の脳損傷体験記』(青土社、2015年)という、本書と同じく神経可塑性治療をテーマとする本を手掛けた。この本は、AI研究者である著者が交通事故に遭遇して外傷性脳損傷(TBI)を被り(この状況は本書第7章に登場するキャシー・ニコル=スミスのケースに類似する)、二人の神経可塑性療法家(ニューロプラクティシャン)の治療を受けて回復に至る過程を克明に描く。

同書の大きな特徴は、非常にIQの高い著者自身がTBIを経験し、持ち前の分析力を駆使して主観的な視点からこの疾病の発現様態、さらには神経可塑性治療による回復の過程が綿密に描かれている点にある。そこで紹介されている治療は、本書の第5章でも言及されているドナリー・マーカスとデボラ・ゼリンスキーによるもの(行動検眼セラピー)で、プリズムメガネを用いて視覚入力を調節することによって、脳の配線を変えるという方法をとる。

クラークの著書の原題はThe Ghost in My Brain だが、この「Ghost」は「真の自己、すなわち事故の瞬間に流浪を強いられるようになった<私>に対する感覚」を意味する。つまり『脳はすごい』に描かれているのは、事故によって失われた真の自己を神経可塑性治療によって取り戻す過程であり、そのことは神経可塑性治療が本質的に全人的(ホリスティック)なものであることを示唆する。これは本書『脳はいかに治癒をもたらすか』の基本的な立場でもある。やや長くなるが、重要なポイントなのでそれが明確にわかる箇所を第7章から引用しておこう。

ホメオスタシスに依拠する脳の自己制御システムの巨大なネットワークを刺激する装置は、脳の疾病を治療するにはあまりにも非特定的であるように見えるだろう。要するに私たちは、疾病に明確な住所を持っていて欲しいのだ。そのため、巨大なネットワークの迅速なバランスの回復を支援する万能の介入法という考えは、いんちき療法、あるいはプラシーボ効果として簡単に見捨てられる。身体は全体として機能するがゆえに全体として治療されなければならないと考える生気論者と、個々の部位を侵すものとして疾病をとらえる唯物/局所論者は、数千年にわたって論争を繰り返してきた。現在は後者が優勢であるが、実際のところ、どちらの側も重要な洞察を提示している。(……)このようにPoNSは、西洋の科学の概念や方法論を導入しつつ、ホリスティックで東洋的なあり方で、すなわち治癒のプロセスの一部としてホメオスタシスに働きかけ、自己制御を促進することで、身体の自助を支援するのである。(424〜425頁)

ここでは前述したPoNS装置に焦点が絞られているが、ここに書かれている指針が神経可塑性治療全般の基本的な考え方であることは、本書を読めばわかるはずだ。このように分析的な西洋医学と、ホリスティックな東洋医学のおのおのが持つすぐれた部分を統合するという側面が神経可塑性治療にはある。昨年、漢方を研究してきた中国の科学者がノーベル生理学・医学賞を受賞したが、今後西洋医学と東洋医学の統合は医学の大きな目標の一つになるのかもしれない。

ところで本書では、パーキンソン病、外傷性脳損傷、視覚障害など、神経疾患の治療がおもに取り上げられているが、治療の対象は必ずしもそれに限られるわけではない。たとえば第4章では、冠動脈疾患に低強度レーザーが有効であることが紹介されている。拙訳、ロブ・ダン著の『心臓の科学史——古代の「発見」から現代の最新医療まで』(青土社、2016年)を読むと、冠動脈の閉塞が人類にとってつねに大きな災厄であったことがよくわかる。現在行なわれている冠動脈疾患の治療は、基本的に予防が意図されている投薬(スタチン)を除けば、きわめて侵襲的である。低強度レーザーという非侵襲的な手段を用いて古代から人類を苦しめてきた冠動脈の閉塞を治療できるのなら、それはまさに私たちにとって大きな福音になるだろう。

さらに神経可塑性は、医療以外の分野にも適用できる可能性がある。たとえばジェームズ・R. ドティ著 Into the Magic Shop (Avery, 2016)では、神経外科医の著者が子どもの頃に、本書第1章にあるような視覚化のテクニックを、とある老婦人からそれと知らずに教わり、それによって将来の展望を切り開いていった様子が自伝的に描かれている。もちろん視覚化のテクニックが彼を神経外科医にしたと言うだけではオカルトのように響くが、動機づけの強化などさまざまな点で効果があったことには間違いないはずである。この本を読んでいて、神経可塑性の概念は、子どもの発達が関わる教育などの側面でもきわめて有用なのではないかという印象を受けた。

このように神経可塑性の概念は、医療の現場を中心として今後ますます注目を集めることが予想される。重要なのは、たとえば宇宙開発などとは異なり、それが誰にも、そしてすぐにも関係し得るという点である。とりわけ親類縁者に神経性の疾患を抱える人がいる読者には、本書は意義深いはずだ。

2016年4月 高橋 洋 

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