戦場体験、交通事故、家庭内暴力、性的虐待、ネグレクト…。人はそうした恐ろしい経験によって、絶望的なまでに過去に囚われてしまうことがある。もともとの体験はもう何年も前のことだというのに、いまだに悪夢やフラッシュバックに襲われたり、爆発的な憤激や感情の麻痺に陥ったり。しかし、そのようにトラウマを負っている人は、正確に言ってどのような状態にあるのか。また、そうしたトラウマはどうしたら治療することができるのか。本書は、それらの問題に30年間格闘してきた斯界の第一人者による、記念碑的な大著である。
本書の原題は、The Body Keeps the Score: Brain, Mind, and Body in the Healing of Traumaだ。Amazon.comの書誌ページを見ると、本邦訳書の刊行時点で、原書には900件近いレビューが寄せられていて、しかもその評価のアベレージはなんと4.8である。本書が、専門家や患者から、そしておそらくは一般読者からも、絶大なる支持を得ていることが、その数字より窺えるだろう。
神経科学の援用と多様な治療法
では、本書はどうしてそれほど大きな支持を得ているのだろう。思うにそれは、以下のふたつの点において、本書がとりわけ異彩を放っているからである。まずひとつは、神経科学の知見などをも活用しながら、「トラウマを負った人は正確にどのような状態にあるのか」を明らかにし、そのうえで、それにもとづいた治療法を提言しているという点。その点からして本書は、「こういった治療が効く」とただ述べているだけの本とはひと味もふた味も違った内容となっている。
そしてもうひとつは、単一の治療法に固執せず、数多くの治療法を採用している点だ。著者は言う。
トラウマには、これぞという「選り抜きの治療法」はないし、自分の手法が患者の問題に対する唯一の答えだと考えているセラピストは、患者を本当に回復させることに関心を持っているのではなく、特定の観念を信奉しているだけである疑いがある。
著者のモットーは、「患者が良くなるのを手助けするために、できることなら何でもする」であり、実際に本書でも、EMDR、ヨーガ、内的家族システム療法、ニューロフィードバックなど、じつに多くの治療法をとりあげている。
さて、以上のように整理すると、トラウマの治療として著者が何を目指しているのかも、よりはっきり見えてくるかもしれない。原題や邦題が示しているように、「トラウマは脳と心と体に痕跡を残す」というのが著者の基本的な考えである。ならば、「トラウマはどんな痕跡を残しているのか」「患者は現にどんな状態にあるのか」を見定めたうえで、それぞれの場合に適した治療法を選択し、ひいてはそれらを組み合わせよう、とそういうのである。
「煙探知機」と「監視塔」の均衡
ひとつ具体的な議論を追ってみよう。先に述べたように、トラウマは脳にもその痕跡を残す。典型的には、トラウマを負った人では扁桃体が過敏に反応するようになっているのである。扁桃体といえば、情動反応の処理においてとくに重要な役割を果たしていて、脳における「煙探知機」に喩えられる部位だ。脳画像でも確認されているように、そうした探知機が過敏に反応するからこそ、患者は必要以上に危険を感知し、ストレスホルモンがたびたび強く分泌されてしまうのである。
ただし、トラウマと関係している脳部位は扁桃体だけではない。扁桃体との関係でとりわけ重要なのは、前頭前皮質だ。前頭前皮質はいわゆる実行機能を担っており、とくに内側前頭前皮質は脳の「監視塔」に喩えられる。煙探知機として警報を鳴らすのが扁桃体の役割だとすれば、その警報が妥当なものかどうかを判断するのが内側前頭前皮質の役割である。かりに煙探知機が警報を発したとしても、監視塔がそれを誤報だと判断すれば、ストレス反応はじきに抑制される。だから重要なのは、扁桃体と内側前頭前皮質の均衡関係なのである。その証拠に、そうした関係が崩れてしまうと、現にトラウマを負った人がそうであるように、すぐさま闘争/逃走モードのような状態に陥ってしまうことになる。
というように、トラウマ性ストレスにうまく対処するためには、まさに両者の均衡関係を維持・回復することが肝要だと考えられる。そして著者によれば、そうした均衡を維持・回復する手段には、トップダウンの調節方法とボトムアップの調節方法がある。トップダウンの調節は、監視塔の力を強化するものであり、具体的にはマインドフルネス瞑想やヨーガなどがそれに当たる。他方、ボトムアップの調節は、自律神経系の再調整を促すものであり、具体的には呼吸や身体動作、接触などを介して行われる。そして、そうした具体的な調節方法として、先に示したような多種多様な治療法を著者は紹介していくのである。
「本物の教科書は1冊しかない」
本書のハイライトは、間違いなく、それらの治療法について述べた後半部である。そこでは、驚きともいえる治療法と回復事例の数々が、著者の熱い筆致によって語られる。正直な話、おそらくこの部分は、その筋の専門家でなければ、「そんな方法で本当に効くの?」と訝しく思われる箇所もいくつかあるだろう。ただそれと同時に、治療法の新奇性とともに、「できることなら何でもする」という著者の意気込みがことさらに目を惹く部分でもある。健全な疑いを持ちつつ、新しいアプローチと著者の情熱を楽しみながら読んでいきたいところだ。
本書は次の献辞から始まっている。
記録をつけ、教科書となってくれた患者のみなさんに捧げる。
著者がかく言うのは、「本物の教科書は1冊しかない、それは患者だ」という恩師の言葉がいまも胸に息づいているからである。そのように患者と向き合いながら過ごしてきたこの世界的研究者の30年は、トラウマと精神医学の変遷の歴史を体現するものでもある。そうした歴史を頭に入れておくという意味でも、精神医学の関係者のみならず、サイエンス好きの読者にも広く手にとってもらいたい――本書は、評者にそう言わせたくなる1冊であった。
今回の本に推薦のことばを寄せているノーマン・ドイジの最新刊。「神経可塑性」を利用して脳の機能回復を成し遂げたさまざまな事例を紹介している。レビューはこちら。