『チャップリン自伝 若き日々』 訳者あとがき by 中里 京子

新潮文庫2017年04月02日 印刷向け表示
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チャップリン自伝: 若き日々 (新潮文庫)
作者:チャールズ チャップリン 翻訳:中里 京子
出版社:新潮社
発売日:2017-03-29
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チャーリー・チャップリン――不世出のコメディアン、映画俳優、映画監督、脚本家、映画プロデューサー、作曲家。それだけの役をすべてひとりで、しかもそれぞれ完璧にこなした天才。その名を抜きに映画史を語ることはできない。それに、なんといっても、彼の映画は文句なしに面白い。

ところが今、チャップリンという名前はなんとなく知っていても、どんな人かよく知らないし、映画も見たことがない、という若い人たちが多いらしい。考えてみれば、チャップリンが生まれたのは1889年。日本は明治22年、大日本帝国憲法が公布され、東海道線が全線開通し、当時外務大臣だった大隈重信が襲撃されて右足を失った年である。初期の名作『キッド』は1921年(大正10年)、『黄金狂時代』は1925年(大正14年)、『サーカス』は1928年(昭和3年)の作品だ。こうしてみると、100年近くも前の遠い昔の作品だと敬遠されても無理ないのかもしれない。

わたしは、名画座の特集やテレビのゴールデンタイムの洋画劇場などでチャップリンの作品に接してきた。そのときですら、リアルタイムの映画ではなく、それこそ誰にとっても"大昔の"映画だったわけだが、ちっとも古臭い感じはしなかった。それに、そうした機会を見逃してしまうと次にいつ観られるかわからなかったから、かえって夢中になって観ていたように思う。現在のように、廉価版のDVDやオンラインの映像ストリーミング、はてはユーチューブやウィキペディアの個々の作品のページなどで、いつでも安く(ときにはタダで)簡単に観られるようになると、かえってかつての名作が顧みられなくなるというのは皮肉なものだ。じつは、今年(2017年)はチャップリンの没後40周年にあたる。この機会に、チャップリンの作品の楽しさ、すばらしさ、奥深さに触れてみてはいかがだろうか。そして、そうした作品を生み出したチャップリンの人となりを、本人自ら綴った本書で垣間見ていただけたら幸いだ。

そんなわけで、往年のコアなファンの方には恐縮だが、原著ペンギン版の著者紹介を下敷きにして、チャップリンの略歴をかいつまんで紹介させていただきたい。

チャーリーことチャールズ・スペンサー・チャップリンは、1889年4月16日、英国ロンドン、ウォルワースに生まれた。同じくロンドンのランベス地区に移ったあと、ふたたび引っ越し、ビッグベンから歩いて2~30分のところにあるケニントンで幼少期を過ごす。両親はふたりともミュージックホールの寄席芸人だったが、チャップリンが三歳になる前に別居。そののち父親はチャップリンが12歳になったときにアルコール依存症で早世。母親はその前から救貧院や精神病院に収容されていたため、チャップリンは父親違いの四歳離れた兄シドニーとともに、六歳で孤児・貧困児施設に送られた。その後、子どもの木靴ダンス一座の団員として10歳でプロの芸人になり、『シャーロック・ホームズ』の巡業で役者として舞台に立ったあと、フレッド・カーノー一座の人気喜劇俳優になる。

19歳のとき、チャップリンはヘティ・ケリーという美しいダンサーと恋に落ちた。ヘティの住まいはカンバーウェル。じつは、夏目漱石もカンバーウェルに住んでいたことがある。漱石がロンドンにいたのは1900年5月から1902年の末まで。短編『倫敦消息』(二つあるバージョンの「ホトトギス版」のほう)に、《アクエリアム》で熊使いの出し物がかかっていることや、"「ケニントン」と云う処まで15分ばかり"歩いてから"地下電気でもって「テームス」川の底を通って、それから汽車を乗換えて、いわゆる「ウエスト・エンド」辺に行くのだ"とか、"人は「カムバーウェル」のような貧乏町にくすぼってると云って笑うかもしれないがそんな事に頓着する必要はない"などと書いている。チャップリンが10歳から12歳ぐらいのころのことだが、ふたりがロンドンの町中ですれ違っていたり、漱石がチャップリンの舞台を観たりしていたかもしれないと思うと、ちょっと愉しい。

さて、カーノー一座の劇団員としてアメリカを巡業していた1913年、チャップリンはロサンゼルス郊外にスタジオがあったキーストン映画社にリクルートされる。そこで出演した一巻物の喜劇から生まれたのが、ご存知「小柄な浮浪者(リトル・トランプ)」のキャラクターだ(「放浪紳士〔ジェントルマン・トランプ〕」という名でも知られている)。

その後は、作品の監督と主演も兼ねるようになり、より多くの自由裁量権と給料を求めて、エッサネイ社、ミューチュアル社、ファーストナショナル社へと、次々に移籍した。この時期の特筆すべき作品には、『チャップリンの勇敢』、『チャップリンの移民』、『犬の生活』、『担へ銃』、『キッド』などがある。一九一九年には、ダグラス・フェアバンクス、メアリー・ピックフォード、D・W・グリフィスとともにユナイテッド・アーティスツ社を設立し、『巴里の女性』、『黄金狂時代』、『サーカス』、『街の灯』、『モダン・タイムス』、『独裁者』、『殺人狂時代』、『ライムライト』といった数々の名作を世に送り出した。その後、さらに二本の長編映画『ニューヨークの王様』と『伯爵夫人』を制作し、本自伝を完成させている。

私生活の面では、波乱万丈の恋愛と結婚を繰り返したのち、1943年、54歳のときに、ノーベル文学賞を受賞した劇作家ユージン・オニールの娘で18歳になったばかりのウーナと結婚して8人の子をもうけた(ほかに、最初のミルドレッド・ハリスとの結婚で生まれ夭折した息子と、自伝には出てこないリタ・グレイとの結婚でもうけた息子が二人いる)。しかし、アメリカにとって外国人であり、急進主義者の嫌疑をかけられていたチャップリンは、戦後アメリカを席巻した赤狩りの犠牲になり、1952年に事実上追放されてスイスに移住。その20年後の1972年、アカデミー賞名誉賞を受け取る機会に、ほんの短期間だけアメリカに戻ることができた。1975年3月には英国王室から大英帝国勲章第2位(ナイト・コマンダー)を授与されて、サー・チャールズになる。そして1977年のクリスマスの日に、スイス、ヴヴェイの自宅にて88歳で永眠。ところが、そのあとも安らかに眠りつづけることはできず、棺ごと誘拐されて身代金を請求されるという事件が勃発。この顛末も、チャップリンにまつわる事件にふさわしく、映画になっている(『チャップリンからの贈りもの』グザヴィエ・ボーヴォワ監督、フランス映画、2014年)。

『チャップリン自伝(My Autobiography)』は、1964年(チャップリン74歳のとき)にボドリーヘッド社から刊行され、1966年にペンギン社に版権が移り、その後2003年に、チャップリン研究の第一人者であるデイヴィッド・ロビンソン氏による序論が付されて、ペンギン社の「モダンクラシックス」シリーズに収められた。本書はこのモダンクラシックス版に基づく新訳である。原著500ページに近い大部であるため、邦訳版は上下巻に分け、この上巻は貧困にあえいだロンドンでの幼年時代から、アメリカで爆発的な成功をつかみ、ミューチュアル社に移る寸前の一九一六年までを収めている。名翻訳家、中野好夫氏の味のある既訳を拙訳で置き換えるのはまことに僭越ながら、今やインターネットのおかげで調べ物が格段に容易になったうえ、チャップリンに関する研究も進んだので、それらを踏まえて訳し直させていただいた。少しでも時宜に適した訳になったとすれば幸いだ。

本書はあくまで「自伝」であり、しかもロビンソンが言うように、ゴーストライターではなく本人の手によるものと思われるため、内容には、取捨選択したあとがある。たとえば、ルイーズの子ども、つまり異母弟のことは書いてあっても、ハナがチャップリンの父親の巡業中に不倫してもうけた異父弟のことは一言も書いていない。これはおそらく、最愛の母親の名誉を傷つけたくなかったためだろう。そのあたりのことは、ロビンソンの労作『チャップリン』(宮本高晴、高田恵子訳、文藝春秋、1993年)に詳しい。本自伝とロビンソンの本をもとに映画化された作品が、1993年公開の『チャーリー』だ(リチャード・アッテンボロー監督、ロバート・ダウニー・Jr.主演)。

続編では、いよいよチャップリンが八面六臂の大活躍を見せる。訪日時に起きた"あの事件"についても明かされる。解説は日本チャップリン協会会長の大野裕之氏。ぜひ引き続きご高覧のほど、よろしくお願い申し上げます。

2017年春 中里 京子  

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