どうしても手元に欲しかった本『失われたパリの復元 バルザックの時代の街を歩く』

成毛 眞2017年04月27日 印刷向け表示
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失われたパリの復元: バルザックの時代の街を歩く
作者:鹿島 茂
出版社:新潮社
発売日:2017-04-12
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正直に告白しよう。本稿の執筆を引き受けた理由は本書『失われたパリの復元』がどうしても手元に欲しかったからである。とはいえ、19世紀のパリ市街にさほど関心を持っていないどころか、バルザックもまともに読んでいない。にもかかわらず、本書が欲しかったのだ。なんとしてでも早く手に入れ、時折ページを開いて、挿絵を眺めながら暮らしてみたかったのである。

「芸術新潮」で連載がはじまった2012年1月号から単行本になることを楽しみにしていた。パチパチと火が踊る暖炉の前で(わが家には暖炉はないが)、ゴリオ爺さんも飲んだシャトー・ラフィットを掌に温めながら、本書を胸に抱いて居眠りをしたいのだ。さぞかし良い気分であろう。なにしろパリを旅する時間旅行者になれるのだ。

もちろん19世紀のパリなど見たこともない、しかも日常的には興味もない。それは宇宙論や生命科学などの最先端科学にも似ているかもしれない。普通に生活するのには必要もなく、見ようとしても見えないもの。人はそんなものに触れていることで、突如として視界が広がることがあるはずだ。

本を撫で回すことで得られる安心感。美しい装丁の本が書庫に入っていることの満足感。そして、いつかは読了してやるという人生の小さな目標を得ることができるはずなのだ。

1853年、日本ではペリーが黒船を率いて来航しているころ、ナポレオン三世に任命されたセーヌ県知事ウージェーヌ・オスマンはパリの大改造に着手した。それまでのパリは自然発生的な都市であり、徴税請負人が作った壁に囲まれており、人口も密集していたため、糞尿や汚物にまみれ悪臭漂う街だった。地区によっては貧困階級が集まって暮し、たびたび暴動も発生していた。計画的な市街地をもつロンドンとは大違いだったのだ。

ナポレオン三世がオスマンに渡した腹案とは、容赦ないクラッシュ・アンド・ビルドの道路整備である。正確なパリ全図はなかったため、まずは市街全域を測量することからこの大事業は始まった。 

19世紀パリの専門家にして稀代の古書コレクターである鹿島茂は、30年ほど前のことマルシアルという銅版画家が『いにしえのパリ』という画集を出版していたことを知る。惜しくも第三者によってこの稀覯本が落札された時の価格は85万円だったという。やがて巡り巡ってついに得物を入手した著者が満を持して著したのが本書である。パリを復元してみることにしたのである。 

まずは美しくデザインされた目次を見てみよう。その見出しはたとえば、第7章「太陽小路で逢いましょう 老耄ユロ男爵の蜜の家」、第20章「レ・アール パリの胃袋は水晶の宮殿なのだとゾラは言う」などだ。なんとも魅力的な言葉がちりばめられていて、それだけでもうっとりするではないか。とはいえ、著者は読者の旅情や郷愁を無駄に煽るのではなく、むしろ自然科学者の手つきでパリの復元に努めるのだ。

なかでもじっくり検分をしているのはシテ島だ。第25章から第28章までの4章を費やしている。とりあえず覗き見ることにしてみよう。38ページで構成されているこのシテ島パートに使われている図版は50枚、うち地図が9枚だ。

現在のパリを代表する観光スポットになっているシテ島には荘厳なノートル=ダム大聖堂やパリ警視庁、マリー・アントワネットが投獄されていたコンシエルジュリなどがある。パリ最古といわれるポン・ヌフ橋もある。まさにパリ発祥の地なのだ。

しかし、19世紀の当時シテ島には身元不明死体を収容するモルグや、ノートル=ダム大聖堂の正面には「棄児院」という施設もあった。起源を9世紀まで遡ることができるパリ市立病院はその悪臭と瘴気が人間の耐えられる限界を超えるようになっていたというのだ。

そのありさまを描いた銅版画はまるで建築写真のようだ。ほとんど人が描かれていないため、むしろ美しい石造りの街並みのように見える。しかし、ナポレオン三世が大改造を企画しなければならなかったほどの混沌がそこにあったのだ。

読者はその想像力も持たない。本文を読むことではじめて絵の中に隠された19世紀のパリの混迷を窺い知ることができる。著者はその復元作業にあたって当時の文学者たちの力を借りる。フロベール、ゾラ、ボードレール、ヴィクトル・ユゴー、そしてバルザックなどだ。

本書はフランス文学へ誘う時空旅行のガイドブックでもある。

※『波』2017年5月号より転載

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