『科学者の網膜 身体をめぐる映像技術論』「ありのまま」に挑んだ5人の科学者たち

小松 聰子2017年05月10日 印刷向け表示
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科学者の網膜: 身体をめぐる映像技術論:1880-1910 (視覚文化叢書)
作者:増田 展大
出版社:青弓社
発売日:2017-03-31
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人は機械に取り込まれているのよ!!(注:若干意訳)

なんと言うことだろう、昔の人は写真に魂を吸い取られると信じて撮られるのを本気で恐れたという話があるが、まさか真実だったのか。思わず震え声になってしまう。人間が気付いていないだけで人類は機械の掌で転がされているだけの存在だということなのか…。実は読み終えた今でも、機械の中で生きる人類を想像してちょっと怖い気持ちになる。

本書は19世紀末から20世紀初頭にかけての5人の科学者を中心に語られている写真文化論だ。
タイトルでもある「科学者の網膜」とは、19世紀後半頃に写真に対して呼び称されたもので、それは科学的な観察手段として人間の認知以上に正確に事象を捉えることができるという意味を込めているのである。

彼らには立場の違いこそあれ、写真を通して身体を観察対象としていたというところに共通点がある。この時代は、写真技術はすでに存在するが映像技術はまだ確立されていないという地点だ。人の「身ぶり」や「動作」を「どう写すべきか」という定石が定まっていない時代と言い換えてもいい。彼らが、写真技術をベースに身体というものをどうやって捉えようとしていたのかを紐解くことによって、写真機という機械がもたらした人間の身ぶりの変容を問い直していくのが本書の流れだ。

どう写すべきかが定まっていない世界というのは一体どういうものだったのだろう?

写真はどうやったって写真じゃん、と思ってしまった私はかなりガサツだ。生身の人間を撮ろうとするその瞬間も、当たり前過ぎる話なのだが身体は常に動いている。動きが少ない状態というのはあるかもしれないが、静止しているということはあり得ない。つまり、どんなに工夫を凝らしたところで写真に撮られた身体が完全に「ありのまま」を示すことは無い。かぎりなくありのまま「風」に近づいていくだけだったりする。

もしも「ありのまま」に写っているように思えるのだとしたら、それは写真にありのままが写っているのではなく、ありのままだと人間が認知するようなお作法に完璧にのっとっているだけなのだ。そしてそのお作法はある日突然できたのではなく、写真技術の進展と並行して徐々に作り上げられたものだ。

「科学者の網膜」の言葉の通り、人間の知覚以上の繊細さで何かを「写す」ことは可能だ。しかし、それは知覚以上に「正しいもの」が映し出されているかという点で正しくない。写真には何が「写されて」いるのか、それは撮る人間と、機械と、被写体となる人間との関係性で決まってくるのだ。その関係性を明らかにしながら彼ら5人の科学者が何を捉えようとしていたのかが語られる。

第1章では身体鍛錬術という「たるんだ身体」の鍛え直し法を考案したデポネ教授と、彼が執心した身体を写真に捉える行為からポーズとは何かということが検証されている。

はっきり言って、デポネが残した写真はものすごく不自然だ。本書に掲載されているたくさんの図説からもそれはよくわかる。鍛えられた身体で古代ギリシャ彫刻のようなポーズをキメていたりする。鍛える前と鍛えた後、今で言うライザップの広告みたいな比較写真もある。

鍛えられた身体の正当性を主張しポーズを決めれば決めるほど、身体は滑稽に見え、身体自身から乖離していくようなのだ。つっかえ棒まで使って彫刻のポーズを真似てるのを見るとおかしすぎて「科学者の網膜」はどこへ行ってしまったのだろうと思わずにはいられない。

第2章でも「あれ?」という気持ちは収まらない。なんと、人間の動きを捉えたいばかりに動線を際立たせるために身体を「消して」しまう。要は真っ黒な布で全身を覆ってしまって撮影に挑むのだ。その布に描かれた白い点だけが撮影時に軌跡となり、写真に記録される。この黒づくめの衣装は戦隊モノの下っ端怪人のようでもあり、加えて身体を「消した」つもりの軌跡写真には時折幽霊のようにブレた身体も映り込んでいて心霊写真を彷彿とさせる。

ここでも身体(あるいは消された身体)は滑稽に見える。まるで見世物のようなのである。私立文系のわたし的から見てもこれは科学ジャナイ気がします…。どういう訳だか写真を「科学的」に捉えようとすればするほどその姿から面白さがにじみ出てきてしまう。

それは、身体のありのままを写したいという願い故に写真機という機械に人間の方がすり寄っていってしまったからなのだという。身体訓練法の大げさで彫刻チックなポージングにしても、軌跡を撮影するために黒ずくめのへんちくりんな衣装に身を包むのもその為なのだ。

そして、第3章で説明されるのは身体の動きを連続写真として捉えようという試みだ。シャッターを切るタイミングを少しずつずらして同時に複数枚の撮影をする。そこで得られた連続写真で動きを「可視化」しようとしている。しかし、残された写真は時系列に沿わないもの、あるいは恣意的に辻褄の合うものだけを取り出して表現するなど、真実を取り出すどころか可視化にこだわって捏造に近いことも行われている。撮影者は取り出された撮影結果を自分やあるいはその写真を見る人間が「納得できる」ような形を作り上げているのだ…。

続く4章、5章でも、人間の身体をどうやったら「納得できる」ように写し出すことができるのか、に熱中する科学者の姿が描かれる。それは彼らが正確さをないがしろにしていたと言う意味ではない。ただ、結果としては正確さがどこかに置き去りにされてしまう事に繋がる事があったのだ。

5人の科学者の試みは、現代人の感覚からすると真実を捉える「科学者の網膜」であったとは言い難い部分も多い。「真実」を撮りたいと欲するあまり、ポーズを作る。自然とは言い難い格好で撮影に挑む。あるいは取り出された結果を改変する。その機械にすり寄っていく姿はまさに「機械に取り込まれている」行為と言える。

しかしこの言葉、冒頭でも触れたが自分が自分じゃないような、自分というものが機械の内部の暗い闇の中にいるような感じがしてとても怖い。自分が自分の体だと思っているものって本当に自分の体なのかな…。思わず我が手をじっと見つめてしまった。

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