数奇な運命をたどった本 『ある奴隷少女に起こった出来事』

吉村 博光2017年07月09日 印刷向け表示
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ある奴隷少女に起こった出来事 (新潮文庫)
作者:ハリエット・アン ジェイコブズ 翻訳:堀越 ゆき
出版社:新潮社
発売日:2017-06-28
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新潮文庫のラインナップに、新たな古典名作が加わった。しかし、『小公女』や『若草物語』のようなフィクションではない。著者自身が序文で「読者よ、わたしが語るこの物語は小説ではない」と言明している通り、「ある奴隷少女」本人が奴隷制の現実をつづった世にも稀なる手記なのである。アメリカでは、すでに大ベストセラーになっているが、日本でも長く読み継がれる本になるに違いない。

内容に入る前に、本書がたどった数奇な運命についてふれたい。本書が刊行されたのは、1861年である。作中人物が存命だったため、「リンダ・ブレント」というペンネームで執筆され、一般的には、白人著者によるフィクションとみなされて読まれた。奴隷解放運動の集会などで細々と売られたが、次第に忘れ去られ、関係者の死とともに著者・ジェイコブズとのつながりも分からなくなっていった。

転機が訪れたのは、出版から126年を経た1987年。歴史学者がジェイコブズ直筆の手紙を発見し、本書がフィクションではなくリンダ(=ジェイコブズ)の手記であることが証明されたのである。その後、アメリカでじわじわと売行きを伸ばし、ベストセラーになった。それを偶然目にした堀越ゆき氏の翻訳により、150年の時を経て、ようやく私たち日本人のもとに届いたのである。

▲ジェイコブズ直筆の手紙
出典:The Harriet Jacobs Family Papers(The University of North Carolina Press刊)

「あとがき」を読むとわかるが、訳者の堀越氏は現役のサラリーマンだ。出張で飛び乗った新幹線でたまたま原著に出会い、心を揺さぶられ、自分が翻訳せねばと思い立った。その偶然もまた、この本に与えられた見えない力のひとつであろう。そして私も運命のバトンをうけとり、居ても立っても居られずこのレビューを書いている。

それでは、本書の内容の紹介にうつりたい。奴隷制下のアメリカ南部で、奴隷として生まれた少女のもとに起きた残酷な運命。人種の垣根を越えて助けようとする人々への感動。保身のために裏切る人への落胆。読み手の心を揺さぶる出来事が、次から次に起きる本である。「ある奴隷少女」の生涯をたどるなかで、現代を生きる私たちには思いもよらない言葉に出会い、深く考えさせられるだろう。

例えば、ジェイコブズは6歳になるまで、自分が奴隷であることを知らなかったそうだ。本書の記述は、家族とともに過ごした幸せな子ども時代から始まる。現代にも通じる家族の愛情が感じられる記述である。しかし、そのような章のなかにさえ、こんな言葉が出てきて私はギョッとさせられた。

わたしたちを買い取り、自由にすることが父の悲願だった。

父親が我が子を買い取るとは、どういうことなのか。それが悲願だというのは、どういう意味だろう。買う人も買われる人も、どんな思いになるのか。私には、到底理解できなかった。奴隷制下のアメリカと現代日本の違いを意識しながら、私はどちらかというと歴史的な資料として本書を読んだ。そして、読者の方々に感想を語り合ってもらう、読書会を企画した。

しかしその会で、私の想いは、180度変わったのだ。そこで、多くの女性読者の口をついてでたのは、「ある奴隷少女」を自分におきかえて読んだ、共感した、という感想だったのである。それは、私にとって驚きだった。程度の差こそあれ、現代日本にもジェイコブズが生きているということなのである。

奴隷少女が自分らしく生きるために感じなければならなかった心情が、現代の日本の少女にとってかけ離れたものであるとは私には思えない。(中略)新しい困難な時代を生きる少女たちには、新しい古典が必要なのではないだろうか──そう思ったことが、本作の出版を決意した理由である。 ~本書「あとがき」より

訳者は、現代日本を生きる少女たちの心情を看破し、そう述懐している。ジェイコブズは、その身に起こった奴隷制の現実を伝えることを自らの仕事として課し、苦しみながらこの手記を書き上げた。そして、時代と場所を大きく隔てた現代日本で、その思いを訳者が受け取り、多くの日本人にいま届こうとしている。私は、この事実に感動すら覚えた。

奴隷制がそうであるように、現在の制度のいくつかは150年後には無くなっているだろう。それは、格差を助長するような雇用体系かもしれないし、教育制度かもしれない。見方によっては、現代は非常識なことや不公平なことが横行している社会といえなくもない。

読書会で集まった方々は、それぞれ違う檻の中でもがいていた。次の150年で、その檻のいくつかは解放され、別の新しい檻が生まれるということなのだろうか。世界に目を転じれば、もっともっと多くのジェイコブズが今この時も生きているのかもしれない。この本は、現代に通じる普遍性をもった手記なのだ。

幼くして好色医師フリントの所有物となり、15歳で性的関係を迫られ、そこから逃れるために別の白人男性との間に子供をもうける。その後の執拗なフリントからの嫌がらせに耐えきれず、ついに脱出。その後7年間、立つスペースもトイレすらもない祖母の家の屋根裏部屋に潜伏。やがて、苦労して北部に逃れるのだが、そこに書かれているエピソードの一つ一つが、ある制度下に生まれた「奇怪な現実」の数々なのである。

読み書きができないはずの奴隷が、この「奇怪な現実」を書き遺していたのは奇跡である。読まずにいるのは、ただただ、勿体ない。間違った制度によって正しさが歪められれば、人は、鬼にも蛇にも変形するのだ。私が使用者の立場になったら、どんな悪魔になるのだろう。あなたは現在、檻の中にいるのか。それとも、誰かを檻の中に閉じ込めているのか。自分はそのどちらでもないと、誰が言い切れるだろうか。

(画像提供:新潮社)

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