『芸術・無意識・脳』 科学と芸術の対話が人間の本質を明らかにする

村上 浩2017年08月02日 印刷向け表示
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芸術・無意識・脳―精神の深淵へ:世紀末ウィーンから現代まで
作者:エリック・R・カンデル 翻訳:須田 年生
出版社:九夏社
発売日:2017-06-29
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1900年前後のウィーンにはあらゆる分野の才能を引き寄せる力があった。哲学ではクルト・ゲーデルやルートヴィヒ・ヴィドゲンシュタイン、音楽ではグスタフ・マーラーやベートーヴェン。その他の芸術や自然科学分野でも、挙げきれないほど多くの偉人たちがこの街に集まっていた。特筆すべきは、その天才たちが個々の分野毎に活動していたのではなく、科学者・作家・芸術家の垣根を越えて混ざり合っていたという事実である。異なる領域に確かな根を持つ頭脳同士のぶつかり合いは、「美術と科学を結び付けようとするパイオニア的な試み」だったといえ、人類に大きな果実をもたらした。

記憶の神経メカニズムに関する研究でノーベル医学生理学賞を受賞した脳神経科学者であり、1929年にウィーンで生まれた絵画コレクターでもある著者・カンデルは、この時代のウィーンが「人文科学と自然科学の開かれた対話をどうすれば実現できるのか」を私たちに示してくれるのだという。本書はそんな1900年のウィーンを起点として、科学の進歩が芸術表現にどのような影響を与えたか、20世紀以降の科学は芸術をどのように説明するのか、そして科学と芸術は心と脳の真実にどの程度近づいているのかを論じていく。

科学と芸術の対話を軸として進んでいく本書の取り扱うテーマは、フロイトによる精神医学の誕生とその後の進化、美術界における印象主義から表現主義への変遷、絵画に対する反応の脳神経科学的アプローチなどへと目まぐるしく変化していく。人は何を美しいと感じるのか、意識と無意識の境界はどこにあるのか、という人間の本質に迫る濃厚なトピックが、これでもかと詰め込まれている。あらゆる知の領域を縦横無尽に駆け回る、ジェットコースターのような読書体験は、理系でも文系でもその価値観が大きく揺さぶられるはずだ。600ページ近いボリュームに、クリムトやココシュカらの絵がカラーでたっぷり掲載されているので先ずは書店で手に取ってその中身をパラパラと眺めてみて欲しい。6,000円超という価格もお買い得に思えてきて、この美しい装丁の本書を、何としても自宅の本棚に加えたくなるに違いない。

1900年前後のウィーンが特別な場所たり得たのには、いくつか理由がある。19世紀後半の敗戦続きによりハプスブルク帝国が力を失うのに反比例するように、リベラルな中産階級が勢いを増していた。その勢いのまま、ウィーン市民は宗教の自由だけでなく、劇場、美術館や大学という充実した公共施設も勝ち取っていた。リベラルな空気の浸透は19世紀終盤には反ユダヤ主義を許容しなくなっており、才能あるユダヤ人を惹きつけた。もちろん、活気や刺激に満ちた知的環境に魅せられたのはユダヤ人だけではない。フランス教育界が中央集権下による機能不全のために、その質を落としていたことも、人々の目をウィーンに向けさせる一因となっていた。ウィーンには主要な大学がウィーン大学一校だけしかなかったことも、プラスに働いた。エリートたちが分野を越えて一か所に集積することで、様々な化学反応が起こったのである。都市の競争力はいつの時代も、外の世界からどれだけ多くの才能を呼び込み、高い密度で集積させることができるかで決まるようだ。

ウィーンのモダニズムには、人の心の大部分は非理性的であるという視点、自己に対する深い考察、学問統一への努力、という3つの特徴がある。1つ目の特徴である無意識の精神活動はフロイトと関連付けられることが多いが、同時代を生きた文学者のシュニッツラー、画家のクリムト、ココシュカ、シーレもまた無意識に魅了され、それぞれの分野で人間の行動を理解しようと表現活動に向き合っていた。

クリムトがウィーン大学医学部教授エミール・ツッカーカンドルから生殖細胞について学び、ダーウィンの進化論を理解しようとしていたことからも、当時の科学と芸術の融合へ向けた取り組みの一端がうかがえる。クリムトの作品の中で最も有名な『The Kiss』にも、当時の最先端の科学的知見を取り込んだ、性的な表現を見ることができる。男性のマントにある長方形は精子を、女性の衣装にある花のようなシンボルは女性の生殖機能を象徴している。教科書や美術館でただその美しさに圧倒されていただけの絵画の本質が、還元主義的な解析によって整理されていく過程には心地よさすら覚える。

絵画の世界に最も大きな影響を与えたテクノロジーの1つは、19世紀半ばに登場した写真である。ショーヴェ洞窟に生き生きとした動物を描いてから、驚異的な現実描写能力を持つ写真が登場するまでの3万年間、絵画はより写実的、三次元的にこの世界を描き出す方向で進歩してきた。写真の登場は、この方向への絵画の進化を止め、画家たちを異なる分野の探索へと向かわせることとなる。それは、写真にはできない経験を、いかに鑑賞者へともたらすかという挑戦だった。

絵画を鑑賞しているときに、生物としての人間にはどのような反応が起こっているのか。脳の神経はどのように視覚情報を処理し、情動として鑑賞者にもたらしているのか。本書の中盤からは、よりカンデルの専門分野に近い内容へと移っていく。私たちがどのように人の顔を識別しているか、どのような顔に心地よさを覚えるか等が、神経科学分野における証拠とともに語られていく。

イギリスの動物行動学者ティンバーゲンによる、カモメのひなに関する研究がとりわけ興味深い。ひなは食事をねだるさいに、母親の嘴にある赤い斑点をつつく。赤い斑点をつつかれた母親は食道に逆流を起こし、ひなに餌を与える。ティンバーゲンは検証を進め、赤い縞を付けた嘴とは形状が似ていない黄色い棒にもひなが反応することを確かめた。さらに、赤い縞を1本から3本に増やすとひなの興奮度合いが増していることまで明らかにした。これは、ひなが実際の母親の嘴よりも、重要な特徴が誇張された抽象的なサインを好むことを意味している。神経科学者ラマチャンドランは、「ヒトも特定の視覚刺激に興奮しやすい素因を持っているようだ」と述べている。これが、現実の人間とは似ても似つかない絵画に心が動かされる理由なのかもしれない。画家は、目の前の現実に縛られることなく、鑑賞者の想像力を働かせるような視覚刺激(ひなに対する赤い線のようなもの)を具現化しようと、懸命に想像力を振り絞っているのだ。著者は、審美に関する生物学の核心を、以下のように表現する。

芸術家は鑑賞者の脳が行うのと同じ方法で仮想現実を創る

縦横無尽に科学と芸術の領域を行き来する本書の議論は、その終盤で人間の自由意志の実在性や創造性をどのように高められるかへと移行していく。科学のメスが脳神経をその対象とできるようになってからは日が浅く、まだまだ未解明な領域は多い。それでも、脳や意識の謎に迫るために断言できることもある。それは、科学的な分析だけ、芸術的な洞察だけでは意識の本質を明らかにするには不十分であるということだ。カンデルは次のように提案する。

我々に必要なのは、芸術と科学の間にある隔たりに橋を架け、隙間を埋めるような説明を探す、という第3の道である。

21世紀に入り科学と人文科学の隔たりはますます大きくなっているように感じられる。そこに橋を架けることは容易ではないかもしれないが、1900年のウィーンに多くののヒントがある。本書は、第3の道を踏み出すための貴重な一歩目となるはずだ。

脳研究の最前線を理研の研究者たちが教えてくれる。巧みな実験手法で、脳の知られざる特徴が次々と明らかになっている。レビューはこちら

あなたの知らない脳──意識は傍観者である (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
作者:デイヴィッド・イーグルマン 翻訳:大田直子
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あなたがこれまでしてきた行動、下した決断はどれほどあなたの”意識”が行ったものだろうか。意識の役割はわたしたちが思い描くものとは、本当は大きく異なることを教えてくれる一冊。レビューはこちら

記憶のしくみ 上 (ブルーバックス)
作者:エリック.R・カンデル
出版社:講談社
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カンデルの専門分野である記憶のしくみについて、しっかりと教えてくれる。仲野徹のレビューはこちら

 

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伊藤 淳2017.8.2 17:20

マーラーは1900年に生きていましたが、ベートーヴェンは既に物故者でした。 明らかな誤謬ですので、ご訂正願います。

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