『芸術・無意識・脳』人の心は、どこまで解明されてきたのか

堀内 勉2017年09月01日 印刷向け表示
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芸術・無意識・脳―精神の深淵へ:世紀末ウィーンから現代まで
作者:エリック・R・カンデル 翻訳:須田 年生
出版社:九夏社
発売日:2017-06-29
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我々はなぜ芸術に心惹かれるのだろうか。人間の心が脳の活動から生まれているのは間違いないが、芸術作品を鑑賞する時、我々の脳の中では何が起きているのだろうか。

本書の表紙にもなっているクリムト(1862-1918年)の『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I』の背景に溶け込んでいる人物の輪郭が分かるのはなぜか。ココシュ(1886-1980年)やシーレ(1890-1918年)の肖像画を観ると激しい情動的な反応が起きるのはなぜか。『モナ・リザ』の微笑みが神秘的に見えるのはなぜか。フェルメールの『音楽の稽古』で楽器を弾いている女性が誰に関心を持っているか分かるのは一体なぜなのか。

21世紀の科学における最大の課題のひとつが、人の心を生物学的に解明することである。そして、この難問を解く手掛かりが見えてきたのは、心の科学である認知心理学が、脳の科学である神経科学と融合した20世紀後半以降のことである。

例えば、眼で集めた情報はどのように像を結ぶのか、思考はどのように記憶されるのかなど、脳の活動の観察を通じて、芸術作品への反応の根底にある一連のプロセスについての理解が進み始めた。

ここで興味深いのは、脳科学の発達より遥か以前から、芸術家は人の知覚や情動的反応について直感的に理解しており、それを創作に活用してきたという事実である。画家は知覚、色、情動についての認知心理学的なものを直感的に知っていて、我々の脳が物理的な世界或いは人間の世界を描くためにどのような手掛かりを用いているのかを理解した上で、外的世界を知覚的にも情動的にも再創造するようなモデルを作っている。

こうした「芸術家は鑑賞者の脳が行うのと同じ方法で仮想現実を創る」という理解こそが、審美に関する脳科学の核心である。そうした意味で、芸術はある経験がどのように感じられるのかという精神の複雑な動きについて、我々に脳科学的な洞察を与えてくれるのである。

このように、脳科学と芸術は、それぞれが全く異なるアプローチで同じ心という問題を扱っているのだが、実際にはこの二つの視点が相互に関連付けられて語られることは滅多になかった。

ところが、本書の出発点になっている19世紀末のウィーンという知的で芸術的な場においては、芸術家、作家、哲学者、思想家などが、科学者と継続的に交流を繰り広げ、早い段階で人文科学と自然科学という二つの視点からの学際的な意見交換がなされ、人の心に関する考察が急速に進展したというのが、著者のエリック・カンデルの提示するユニークな視点なのである。

「ウィーン1900年」と呼ばれる世紀末前後の時期にウィーンで描かれた、クリムト、ココシュ、シーレなどのモダニスト達による肖像画は、モデルの内面的な感情を意識的に描き出そうとした試みであり、これは同時代の医学者、生物学者、精神分析学者などとの交流から大きな影響を受けている。

つまり、この時代のウィーンは、人文科学と自然科学の開かれた対話が行われた、芸術と科学を結び付けようとするパイオニア的な試みの場であり、生前のスティーブ・ジョブズが、「テクノロジーとリベラルアーツの両方の素養がないと素晴らしいものを作ることはできない」と言い、アップルは両者の交差点にいる会社だと称したのを連想させるような特異な空間だったのである。

思い起こせば、20世紀初頭まで続いたハプスブルク家全盛のオーストリア帝国(オーストリア=ハンガリー帝国)の首都ウィーンは、当時、世界の文化の中心だった。19世紀半ばに産業革命を迎えたウィーンでは、1873年にウィーン万博も開催され、1910年には人口が203万を数え、当時のヨーロッパでは、ロンドン、パリ、ベルリンと並ぶ大都市だったのである。

本書のサブタイトルにもなっているが、この頃のウィーンは「世紀末ウィーン」と呼ばれ、コスモポリタン的な雰囲気や環境の中で、史上稀に見る文化の爛熟を見せ、特に、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世がユダヤ人に対して寛大な姿勢を取ったことから、ユダヤ系の人々の活躍が目覚しく、そこでは多様な芸術文化が花開いた。

上述したクリムト、ココシュ、シーレなどの美術に加え、「音楽の都ウィーン」を代表するヨハン・シュトラウス2世(1825-1899年)、ブラームス(1833-1897年)、ブルックナー(1824-1896年)、マーラー(1860-1911年)などが有名だが、その他、哲学のウィトゲンシュタイン(1889-1951年)、建築のワーグナー(1841-1918年)、文学のカフカ(1883-1924年)、物理学のボルツマン(1844-1906年)、生物学のメンデル(1822-1884年)、経済学のメンガー(1840-1921年)、演劇のバール(1863-1934年)など、多くの分野において、数え切れないほどの偉人達がこの街に集まっていた。

中でも、東欧系ユダヤ人の家に生まれたフロイト(1856-1939年)は、精神分析学を創始して同時代の芸術文化に多大な影響をもたらした。精神分析学は、精神療法であると同時に、健康であるか否かを問わず、人間の心理を解明しようとするひとつの科学として提唱され、更には「人間とは何か?」という古来の哲学的な問いに答えようとする思想でもあったのである。

このように、「ウィーン1900年」という特異な時代を起点に、本書は芸術と脳科学という二つの側面からのアプローチを通じて、芸術の創造や鑑賞を可能にする人の心、即ち、精神の本質が科学的にどこまで解明されてきたのかを論じている。

同時に、本書は1929年にウィーンでユダヤ人として生まれたカンデルという一人のノーベル賞科学者がどのように生き、脳神経科学の発展にどのように寄与してきたかを綴った自伝でもあり、芸術における表現主義やモダニズム、ウィーンの歴史と文化、精神分析学と脳科学の発達、脳神経科学者の自伝など、様々な切り口で読むことができる。

このように、本書のカバー範囲は広範であり、これを完全に読み込むにはかなりの知識レベルが要求されるのだが、まず誰でも素直に楽しめるのは、第1部の芸術に関する部分であろう。

ここには、クリムト、ココシュカ、シーレ、ヤコブス、ティツィアーノ、ゴヤ、マネ、モジリアーニ、メッサーシュミット、セザンヌ、ブラック、モンドリアン、ブルイエ、レンブラント、ダ・ヴィンチ、ゴッホ、フェルメール、ベラスケス、ラ・トゥールなどの有名画家の絵が、カラー写真と共に詳しい(脳科学的な)解説付きで載っている。

特に、芸術家団体クンストラーハウス(美術家組合)の保守性を嫌った人々によって1897年に結成されたウィーン分離派の初代会長を務めたクリムトや、それに続くココシュカ、シーレについては、その時代背景も含めて詳しく説明されているので、美術の解説書として楽しめる。
続く第2部・第3部・第4部が、認知心理学と脳科学に関する部分で、ここでは、脳の画像処理・情報処理のメカニズム、ゲシュタルト心理学、無意識の情動と意識的な感情の関係、美醜に関する生物学的反応、ミラーニューロンによる共感のメカニズムなど、心理学・脳科学と芸術との対話を深化させる研究成果が解説されている。

その上で、最後の第5部「進化する芸術と科学の対話」において語られる、生物学的と美学が融合した新しい心の科学は、芸術のみならず、日々の生活において知覚や創造力を生み出す脳のメカニズムの探求の可能性を広げるものとして提示されており、最終的には、自然科学は我々が共有する文化的体験の一部になることができるかも知れないとの見方が示されている。

そして、これら全てに通底しているのが、著者の原体験から来る「人間とは何か?」という根源的な問いである。世紀末ウィーンの時期の1889年、オーストリア=ハンガリー帝国でヒトラーが誕生した。1942年、ユダヤ人であるカンデルはヒットラー率いるナチスの迫害を逃れて、ウィーンからアメリカに亡命することになる。ウィーンの学校ではそれまでの友人達から突然口を聞いてもらえなくなり、遂には祖国を捨てざるを得なくなった経験から、人間の本質について深く考えるようになったのだという。

こうした原体験がカンデルの芸術に対する関心の根底にあり、そして学問的には精神分析医から脳の生理学的研究へと彼を導いていったのである。そうした意味で、本書はカンデルの単なる伝記に止まらず、人生そのものだと言っても良いだろう。

最後に、本書の内容とは別に、ハードについて付言しておきたい。本書は表紙になっているクリムトの『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I』を始め、非常に美しく装丁されており、今時にしては珍しく、本棚に飾っておきたい芸術作品のような本である。

本好きにしか分からないであろう、本を持ったり触ったりした時のこの感覚を久し振りに堪能することができて、とても幸せな気分になった。恐らく、この本に触れることで、私の脳の中では様々な芸術的反応が起きているのだと思う。

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