『新薬の狩人たち』創薬──人類最難の事業に挑む 解説 by 佐藤 健太郎

早川書房2018年06月05日 印刷向け表示
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新薬の狩人たち――成功率0.1%の探求
作者:ドナルド R キルシュ 翻訳:寺町 朋子
出版社:早川書房
発売日:2018-06-05
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NHKにて、2000年から2005年にかけて放送されたドキュメンタリー番組「プロジェクトX~挑戦者たち~」をご記憶の方は多いだろう。さまざまな困難に立ち向かい、苦闘のうちにそれを克服して、ついに成功を収める「挑戦者たち」の姿を描いた同番組は、共感を呼んで多くの支持を集めた。

中でも人気を集めたのは、新幹線、胃カメラ、液晶ディスプレイといった、新製品開発の物語だ。あるいは傾きかけた会社の命運を背負い、あるいは社内の反対を押し切って、画期的な製品の開発に 挑むドラマは、文句なしに面白い。このため「プロジェクトX」では、地図や冷凍食品から地雷探知機に至るまで、あらゆる商品の開発物語が放映された。

私は当時、医薬品メーカーで医薬研究の業務に就いていたので、いつか薬創りの過程も紹介されないものか、楽しみにしていた。しかし、身近かつ重要な製品でありながら、医薬に関する事柄は、ただの一度も同番組で取り上げられることはなかった。「プロジェクトX」以外にも類似のドキュメンタリー番組や書籍、映画はいくつもあるが、医薬品を創り出す過程──すなわち、「創薬」を取り上げた作品は、ほとんど記憶にない。医師を主人公とし、医療の現場を描いた作品は、フィクション・ノンフィクションとも数限りなくあるというのに。

医薬は、誰もがお世話になる身近な製品だ。激しい苦痛や生命の危機からさえ患者を救い出してくれるから、ドラマ性にももちろん満ちているし、場合によっては年間数千億円もの売り上げを叩き出すから、経済的な意味でのインパクトも絶大だ。製品創出の過程も、十数年に及ぶ長い道のりであり、 人間臭いやり取りや競合他社との激しい競争、予想通りの結果が出ない苦悩などなど、ストーリーを盛り上げる要素には全く事欠かない。

にもかかわらず、医薬品開発のドキュメンタリーや小説は少ない。薬について書かれた本は多くとも、それがどのように作られ、体のどこに入って何をするのかきちんと解説した本となると、専門家 向けの教科書を除けばごくわずかだ。

考えてみれば不思議な話だ。他の製品と異なり、医薬品は体内の奥深く──細胞のひとつひとつにまで潜り込んで、生命のシステムの根本に直接タッチする。それは生命さえも救い、時に副作用でひどいダメージを与えることもある。にもかかわらず多くの人は、医薬とは結局のところ何なのか、体内のどこにどう作用するのか、ほとんど知ることのないままこれを服用しているのだ。

薬とは何か、どのように創られるのかがほとんど語られないのは、いくつか理由がありそうだ。ひとつには、医薬品の創出には高度な科学知識を必要とし、一般にはとっつきづらいこと。特に最先端の創薬は、有機化学・分子生物学・薬理学・遺伝子工学・結晶学・情報科学などを動員した総力戦であり、専門家ですら全てを把握することは難しい。ドキュメンタリーを作る側からすれば、これは極めて高いハードルだ。

第二に、製薬企業の強烈な秘密主義がある。何しろ医薬の開発は競争が激しく、特許出願が他社より一日遅れただけで、何千億円という損害が生じることすらありうる。たとえ過去のプロジェクトであろうと、ライバルに少しでもヒントを与える可能性のある情報は、何一つ漏らさないのが製薬企業というものだ。

第三に、医薬というものには必ず影の面がつきまとう。全ての医薬は大なり小なり副作用を持ち、完全に切り離すことは不可能だ。ひとつの医薬が数十万人の命を救う一方で、数百人の命を奪ってしまうこともありうる。

また、医薬というものは巨大な金額が動くだけに、不正行為がつきまといがちになる。近年の日本でも、ディオバン事件(ノバルティスファーマ社の高血圧治療薬「ディオバン」の臨床研究における不正事件)をはじめ、社会問題ともなる事件が発生している。要するに、医薬には他の製品にはない多面性があり、評価が極めて難しい存在なのだ。

私自身、『医薬品クライシス』(新潮新書)など、医薬に関する本を何冊か著しているが、書けば書くほどにその複雑さと奥の深さを思い知らされる。これほどドラマチックで興味深いのに、これほど描き出しにくい題材はちょっと他にない。

その困難な題材に正面から取り組み、「ドラッグハンター」という視点からこの世界を描き出してみせたのが、本書の著者ドナルド・R・キルシュだ。スクイブ社、サイアナミッド社、アメリカン・ ホーム・プロダクツ社などで、35年にわたって創薬研究に従事してきた、まさに筋金入りのドラッグハンターであり、製薬業界の裏も表も知り尽くした人物だ。

お読みいただいた方ならおわかりの通り、著者は類まれな筆力にも恵まれており、難解な創薬の過程を迫力十分に描き出している。その著者が、各種史料を渉猟しつつ、豊富な経験を一杯に詰め込んで書き下ろしているのだから、これが面白くならないわけがない。元創薬研究者としては、ところどころに挿入された業界の裏話的な部分にもニヤリとさせられてしまう。

序章は、1991年にアルプスの山中で発見された、新石器時代のミイラ「エッツィ」の物語で幕を開ける。5300年も前に生きた彼が医薬(虫下し)を携行していた事実は、人類と医薬との深い関わりを示して興味深い。実際、人類というものは文字を発明し、記録を残せるようになるとほぼ同時に、医薬の製法を書き残しているという。病の痛みや苦しみを癒やし、健康を取り戻させてくれる医薬の作り方は、何をおいても記録しておくべき情報であったことだろう。

おそらくは多大な犠牲と代償を支払いながら、人類はいくつもの「医薬」を発見し、蓄積していった。それらは名医の名のもとに体系化され、バイブルとして権威づけられていった。

興味深いことに──といっていいかどうかわからないが、これら古くからの「医薬」のほとんどには、現代の目から見て「効果あり」といえるものはほとんどない。真に効果があるかどうかの判定は、 我々が思うよりはるかに難しいのだ。患者がある植物を試しにかじってみたら、その時たまたま体調 がよくなった、あるいはプラセボ効果によって症状が軽快した──といったケースは数多くあり、これらが薬効の有無の判定を妨げる。

この厄介な霧を振り払い、効果の正しい判定に道を開いたのが、本書第12章に登場するジェームズ・リンドだ。できるだけ同じ条件の患者を揃え、試験したい医薬だけを変えて結果を比較する。このシンプルながら強力な方法が人類にもたらした恩恵は、限りなく大きい。人類は、ここに初めて行き 当たりばったり、手当たり次第のドラッグハンティングを卒業し、真に効能のある物質だけを見つけ出す技術を手にしたのだ。

化学や細菌学の発展を経て、現代につながる医薬が登場するのは、ようやく19世紀後半のことだ。このため、本書に登場する医薬の発見物語も、この時期以降のものがほとんどになる。

著者は医薬の起源を植物、合成化合物、土壌細菌由来、バイオ医薬などと分類し、それぞれの元祖となった医薬品の発見物語を解説している。中でも解熱鎮痛剤アスピリンに関する項目は、本書の白眉といってよいだろう。バイエルの若き化学者フェリックス・ホフマンが、リウマチに苦しむ父を救うため、副作用の少ない鎮痛剤を編み出した──という有名な孝行話を覆し、ナチスによって隠蔽された影のヒーローである、アルトゥル・アイヒェングリュンの存在を著者は発掘してみせた。この一点だけでも、本書が著された意義は大きいといえる。

その他、日本の読者のためにいくつか補足しておくと、第5章「魔法の弾丸」で取り上げられたサルバルサンの発見には、日本からの留学生であった秦 佐八郎が大きな貢献をしている。また、第12章で述べられているビタミンB1は鈴木 梅太郎が、アドレナリンは高峰 譲吉が第一発見者とされている。開国から間もない時代に、早くも日本の化学者が世界的な業績を上げ、近代薬学の発展に大いに貢献していることは、もっと知られてよい事実だろう。

また、この種の本には珍しく、著者は医薬の影の部分をもきちんと描いていることも特筆すべきだろう。現代の臨床試験は厳密を極めるが、こうした厳しい規制がどのような歴史を経て生じたか、医薬関連の仕事に就く方には特に本書第6章の一読を勧めたい。

こうした紆余曲折を経て、医薬の歴史は刻まれてきた。私が若い頃に隆盛を極めていた合成医薬は、今やバイオ医薬に大きく押されている。これらは、我々が「薬」といって思い浮かべる、錠剤やカプセルなどとは全く異なるものだ。

さらに近年では、再生医療や細胞医療といった、今までなら「医薬」とはみなされなかったような 手法にも、製薬企業は手を伸ばしている。その意味で、医薬という枠組みは今や緩く溶け始めており、 遺伝子工学や細胞工学と一体化した新たな医療手段に昇華しつつあるといえよう。

しかし著者の主張する通り、そこまで進歩してなお、創薬という過程は不確かで運任せで、どこま で行っても先行きがわからない。エッツィの時代から今に至るまで、安全かつ手軽に病苦を取り除いてくれる医薬は、人類が最も求めてやまぬものであった。人類はいつの時代も、最高の叡 智とあらん限りの資金をそこに注いできたが、完璧な医薬にたどり着くことは残念ながら永遠にあるまい。

それを知りつつも、人々は「創薬」という人類最難の事業に挑み続ける。その姿をリアルに描き出すという、これまた困難な事業をやってのけた本書は、この分野の金字塔として長く読み継がれていくことだろう。  

2018年5月 佐藤 健太郎

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