『馬車が買いたい!』

成毛 眞2009年06月24日 印刷向け表示
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馬車が買いたい!
作者:鹿島 茂
出版社:白水社
発売日:2009-06
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またまたこの忙しい時期に、とんでもなく面白い本を見つけてしまった。本書の初版はいまから19年前の1990年である。この6月に6篇のエッセイを付け加え新版として出版された。

まずは本書を簡単に紹介してみよう。バルザック、フロベール、ユゴー、スタンダールなどの19世紀のフランス小説から風俗描写を抜き出し、当時のパリという街のディテールや、金銭感覚などを纏めたものだ。あとがきで著者は「以前から注が主体であるような本を書きたかった」といっているように、大量の図版を使いながら、本全体としてはネットワークのような構造になっている。一般的な文学評論からはかなり距離があり、いわば小説に記述された形而下のみを扱いながら、じつに味わい深い本に仕上がっている。

本の仕立ては小説の主人公たちが田舎からパリに向かい、下宿に住みつき、生きるために食べ、盛り場に出向き、背伸びをするという構成になっている。ところが記述されるのは馬車や鉄道に関する恐ろしいまでの薀蓄であったり、ディテールを極めた盛り場の模様であったり、現代に換算した物価や家計簿であったりするのだ。

普通の人にとってこの本を読むモチベーションとして、「知る楽しさ」はニのつぎであり、純粋に本を読むことが第一であろう。第一章は11ページにわたりディリジャンス(遠距離乗合馬車)について説明した章だ。馬車の3分割構造、それぞれの乗客、運行業者、発着所など細部を極める。「フランス関係者」でもないボクにとっては生きるためには何の意味ももたない。しかし、とんでもなく面白いのだ。文章はこなれており、軽快で、小説からの引用もすばらしく、第1章だけでも13枚もの図版が使われている。

カルチェラタンの安食堂のメニューはもちろん、パンは別売であったかどうか、そしてそのパンの値段まで網羅する。つまり19世紀フランス小説はその程度のディテールまで書き込んでいたのである。新しい発見もある。下宿について、パンシオン・ブルジョワーズという施設は賄い料金を支払った者に部屋も貸すという仕組みだったという。当時のパリにおいては食が住よりも先にあるのだ。

本書の中半分は盛り場についてだ。リュクサンブール公園、パレ・ロワイヤル、フラン・ブールヴァールのディテールだ。もはや抜き出す必要もなかろうが、ブールヴァール・デュ・タンプルには蝋人形館、フィエスキ事件の家、プチ・ラザーリ座、デラックス・コミック座、フェルナンビュース座、ゲテ座などがあり、それぞれの劇場の由来や出し物が詳しく記述されている。

著者はついに家計簿まで調べあげる。小説のなかから、『レ・ミゼラブル』のマリユス・ボンメルシーと『バカロレア合格者』のジャック・ヴァントラス、『あら皮』のラファエル・ド・ヴァランタンの3人の支出を拾いだし、食費、部屋代、掃除代、衣料費、洗濯代、光熱費、維持費、予備費、教養費に分類して比較表を作っているのだ。

繰り返しになるが、本書の魅力はなんといっても本を読むという行為を純粋に楽しめることだ。よほどの19世紀のフランス好きに巡り合わない限り、本書で得た薀蓄を語りあう場面はないはずだ。ボクにとっては理想の本の1冊である。

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