『輸血医ドニの人体実験』 - サイエンスをめぐるサスペンス

内藤 順2013年05月21日 印刷向け表示
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輸血医ドニの人体実験 ---科学革命期の研究競争とある殺人事件の謎
作者:ホリー・タッカー
出版社:河出書房新社
発売日:2013-05-18
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今となっては笑い話のようにも聞こえるが、太古から現代まで、数多くの迷信が科学的知識として信じられてきた。何でも金に変えられるという賢者の石を探し求めた錬金術師たち、不老不死を願って水銀を飲み続けた人たち、地球平面説や地球空洞説を信じていた人たち。

古代ギリシア時代から19世紀半ばまで信じられていた「四体液説」も、その一つと言えるだろう。これは人体が血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁という四種類の体液に支配されているという考え方のことを指す。その中では血液が胃から心臓へ一方向に流れると見なされ、血液の過剰が病を引き起こすものと考えられてきた。

ここに風穴を開けたのが、1616年にウィリアム・ハーヴェイが発表した「血液循環説」というものである。「血液は心臓から出て、動脈経由で身体の各部を経て、静脈経由で再び心臓へ戻る」というこの説を検証するために、数々の研究者たちが凌ぎを削ってきた。その血で血を争うような戦いの主戦場となったのが、「輸血」という舞台であったのだ。

そんな中、世界初となる人体への輸血実験がフランスにて行われた。挑んだのは、どこからともなく現れたジャン=バティスト・ドニという若い医師。彼は人への輸血を初めて行なうことで科学界を驚かせ、大きな評価を得る一方で、それ以上に大きな論争をも巻き起こすことになった。本書は17世紀のわずか数年間に起きた、輸血医ドニ、そして輸血初期の盛衰を辿るヒストリーである。

1667年6月の半ば、ドニは16歳の少年の静脈に輸血した。注入したのは、なんと子羊の血液。だが結果は驚くべきものであった。少年は死ななかったのだ。ちなみに動物の血が使われた理由は、当時、一人の人間の命を縮めてもう一人の人間の命を長らえることが、野蛮な行為とされていたことによる。最初の成功に気を良くしたドニは、さらに患者を見つけて数回にわたる輸血を行う。だが、上手くいったのは、2人目の患者までであった。

3人目の患者は、アントワーヌ・モーロワという、精神を病んだ34歳の男だった。ドニは150ml余りの子牛の血液をモーロワの腕から輸血した。翌朝には、実験がうまくいったかのように思えた。だが、その後輸血を繰り返したところ、結局モーロワは死亡してしまうことになる。そしてドニは、殺人罪で告発されたのだ。

この歴史的事実だけを見ると、なぜ?という疑問符が、どんどんと頭の中に湧いてくることだろう。だが本書の白眉は、この輸血の歴史というものを、社会的コンテキストという観点から読み解こうとしている点にある。血液の過去を知ることは、その時々の社会の関心事の中核にあったものが露わになることを意味する。輸血と向きあうことを余儀なくされた時、はたして社会はどのように対峙したのか?

その背景には、17世紀後半の政治闘争、宗教論争、熾烈な野心などがある。世はまさに英仏が、科学の覇権を争っていた時代。また当時のヨーロッパには、プロテスタントの国イングランドとカトリックの国フランスという大きな亀裂も存在した。

だが、いずれの国においても「名家の血筋」、「血を分けた兄弟」など、「血」は自分が何物であるかという意識の中核をなすと考えられてきた。そのため、どこをどう間違えたか、動物の血を輸血をすれば人は動物に変身してしまうのではないかという考え方が跋扈し、人々に畏怖の気持ちを植えつけていたのである。

さらに本書の魅力を高めているのは、このドニの事件が毒殺事件として結末を迎えたことである。本書がサスペンス的な性格を持ち合わせている以上、ここで真犯人の名を明かすような無粋な真似は控えるが、これがただの偶発的な要因ではなかったということ、その後150年近くに渡り輸血を禁止してしまう結果につながったことについては、言及しておきたい。

真犯人たちが、毒殺事件を起こしてまでも輸血をやめさせたかった理由は、奇妙でもあり興味深くもある。それは医療の安全性や患者自身の満足を重んじたからではなく、種が異なる生き物の血液を混合することにモラルや宗教が大きな影響を及ぼしたからであったのだ。実験の抵抗勢力は、社会のいたるところに潜んでいたのである。

その頃のヨーロッパにおいて科学と迷信の境目は、流動的だった。迷信から科学への移行は、今日では「科学革命」と呼ばれてもてはやされているが、いわゆる革命のごとく一直線に進んだものばかりではない。本書で描かれているのは、いわば「掘り起こされた革命」の歴史である。

著者は問いかける。社会は科学に制限を設けるべきか?設けるべきだとしたら、どのような代償をどう支払うことになるのか?17世紀の輸血とは、迷信によって血液の役割が過剰に評価されていたがゆえに、人間であるとはどういうことか、また人間でないとはどういうことかを問いただす、哲学的な側面も持ち合わせていたのだ。

数学、物理学や天文学など、様々な分野で近代科学が花開いた17世紀の時代。輸血の歴史は、この中で数少ない暗部に位置するものと言えるだろう。だが、その歴史を知ることは、過去に生じた科学と社会の衝突について理解できるだけでなく、衝突をどう乗り越えていくべきかに関する教訓へとつながっていく。生命科学の時代を迎える今、血塗られた血液の歴史から学びうることは、実に多い。

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ニュートンと贋金づくり―天才科学者が追った世紀の大犯罪
作者:トマス・レヴェンソン
出版社:白揚社
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同時代、輸血と同じように不道徳な変成とされていた錬金術。晩年、錬金術にのめり込んだニュートンの犯罪捜査官としての姿がここに!本書と同じ翻訳者の手による傑作。レビューはこちら

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作者:アンドリュー・キンブレル
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17世紀に生体実験が数多く為された背景には、デカルトの機械論というものがある。そこに経済性や効率性が加味され、現代は自分のからだを商品化する時代に。成毛眞のレビューはこちら

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狂気をもって正気を知る。世の中を切り開いてきた人体実験の数々。レビューはこちら

図説偽科学・珍学説読本
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出版社:原書房
発売日:2013-03-22
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古来より信じこまれてきた偽科学、珍学説が一望できる一冊。気楽に読めて、笑える科学本。

記憶をコントロールする――分子脳科学の挑戦 (岩波科学ライブラリー)
作者:井ノ口 馨
出版社:岩波書店
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記憶の仕組みが分子レベルで理解できる一冊。記憶をコントロール出来るようになるということは、社会的な問題との衝突が免れないということか。

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