『チェリスト、青木十良』

土屋 敦2011年08月28日 印刷向け表示
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チェリスト、青木十良が88歳のときから録音を始めたバッハの無伴奏チェロ組曲を聞いたときの驚きは忘れられない。

艶やかで密度の濃い音楽だけが、ある。そして90歳代に入ると、もはや「音」だけしかない、という境地に至る。まわりのすべてのものが消えて、世界に音しか存在しなくなる、と言ってもよいかも知れない。そして、透き通るようでありながら「存在感そのもの」ともいえようなその音も、聞き手の耳に届くやいなや、天上のものであったかのように、スーッと消え去ってしまう。すなわち聞き手は静寂と無のなかにひとり取り残され、うろたえつつ、静けさにただ身を晒すしかない、そんな印象だ。

その青木十良の人生を取材によって描き出した本が出た。こちらもその音楽に劣らず惹きつけられるものだった。

チェリスト、青木十良
作者:大原哲夫
出版社:飛鳥新社
発売日:2011-07-08
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というわけで、クラシック音楽についてちょいと高尚なことでも書いてやろうと思っていたのだが、実は、より心惹かれ、飛び切りに面白いと思ったのは、クラシック音楽について以上に、彼の人生について書かれた箇所だった。残念ながら、いつものHONZらしい、マニアックな方向に落ち着かざるを得ない。とにかくまずは引用する。

盤を上から虫眼鏡で覗くと、30サイクルぐらいとの低音のところの溝がうねって見えるんです。この低音を何とかして出したいんですね。どうやって出すか、どうやって増幅するか。それで30サイクルから40サイクルに向けて共振回路を作ったんですね。共振させるためには、抵抗の少ないコイルを作らなくちゃいけないわけです。(中略)抵抗の少ないコイルがいる。そのコイルを巻く鉄芯は導磁率の高いものじゃなくてはいけない。それで中学に上がる頃にはその鉄芯を学校の帰りに買いに行くわけですよ。日本フィリップスの前身のクボタ商会という店です。(中略)高いんですよね。「ニカロイ」って言いました、つまりニッケルアロイの略ですね、この鉄芯だけで5円や6円は投資しました。

何のことを言っているのかおわかりだろうか。盤というのはSPレコード。つまりこれは自作の音響装置の解説だ。ときは戦前、関東大震災の数年後のこと。当時小学校高学年だった十良は、すでに高性能のアンプやスピーカーを作っていた。上述の共振回路で、コントラバスの低音をブォーっと鳴らして、悦に入っていたらしい。その腕はやがて周囲に知られ、「すごいアンプを作る」というので、近所のレコードクラブの大人たちが、新譜のレコードを持って集まり、彼の装置で聴いていたそうだ。

そして開成中学に入学するやいなや、科学部を立ち上げる。病気で中学を休学し、沼津で療養することになるが、その療養中にも、増幅器とシールドをつけた、感度がよく雑音の少ない画期的なコンデンサーマイクを作って売り込んだり、中学生の分際で、さまざまな特性を持った真空管を工場に特注して作ってもらうなどして、高性能の音響装置を制作したりしていたという。例えば、高音専用と低音専用のアンプリファイヤーを作って出力でミックスさせ、当時世間には出回っていなかった、高音用と低音用のスピーカーを複合させたツゥ・ウェイ・スピーカーを自作して、SPレコードを素晴らしい音で鳴らしまくっていたらしいのだ。

その後も録音会社を作るなど(若き日の渡辺貞夫や三島由紀夫の演説なんてものも録音しているそうだ)、彼の音へのコダワリは凄まじいものがあり、それが科学の知識と理論に裏打ちされている。おそらくそれが80年近くの時を経て、冒頭で紹介したような「音そのもの」といえる演奏に結実したのではないか。

十良はオーディオ少年であると同時に、科学少年だった。その科学への傾倒ぶりも凄まじい。開成中学に科学部を作ったことには触れたが、化学、物理、数学を愛し、「Popular Science」や「Radio News」などの科学雑誌を言語で読みこなす中学生だったという。核物理学者になるためにサチューセッツ工科大学に行くべく(MITは15歳から入学できた)、中学3年でアメリカ大使館に出かけて渡航の手引きをもらっている。日米開戦の少し前のことだ。

残念ながら政府が15歳以上の男子を渡航禁止にしたため夢は叶わなかった。それどころか、十良は教師に「お前たちに、服従の精神を養ってやる」と言われて頭にきてしまい、「お金を払って服従の精神を習いに来たわけじゃない」と開成中学を退学してしまう。彼は月謝を自分で払っていたのだ。

ここまで書くと、月謝やオーディオに費やすお金はどうしたのか? 疑問を抱く方も多いだろう。実は十良には早く亡くなった両親の遺産があり、また自身で株の売買もしていた。中学生の十良が制服から背広に着替え、一人で証券会社に出向くと、重役が対応してくれたそうだ。

十良の実家は薬問屋。「薬九層倍」と言われたほど儲けが厚いゆえ、大変な資産家だった。化学原料なども扱い(第一次世界大戦後、化学原料が2000倍以上に暴騰し、こちらでも大儲けしたらしい)、さらに銀行まで経営していた。

十良の家は、相当に型破りだ。まず、子供の名前。上から4人はちゃんと名前があるものの、5番目からは商売が忙しくなったのか、名前が、単に数字の五、六、七、九(八番目は女性なので一応八子と名付けた)と番号そのまま。なぜか十番目の十良だけ「良」という字が付いたが、父親は銀行を継がせるべく、幼稚園の頃から四桁の四則演算を覚えさせるなど英才教育をしていたそうだから、特別な思いがあったのかも知れない。

家には、従業員がいっぱいいて、子どもの数だけ乳母がいて(それがいがみ合ってしょっちゅう喧嘩している)。とにかく大人数の家族。従業員と使用人、家族だけで、学芸会や運動会をやっていたそうだ。

薬だけでなく科学染料やダイナマイトなどの爆薬も扱っていたため、塩酸や、街が吹っ飛ぶほどのニトログリセリンが無造作に置かれ、その一方で、BMWの車を扱い、ドイツ人など外国人も多数出入りしていて、ピアノやヴァイオリン、チェロなどが転がっていた。十良のおもちゃは当時極めて高価だった蓄音機。兄たちは誕生日プレゼントに外車をもらっていた。十良の趣味も、オートバイ、グライダーに飛行機、山スキーと、やはり庶民とは違う。

そんな十良は、家に出入りしていたドイツ人が弾くチェロの音に魅せられ、MIT行きを断念した年に、300円(現在の価値で300万円程度だそう)の現ナマを手に楽器店に出向き、チェロを即金で買う。15歳という音楽家としてはあまりに遅いスタート。88歳からの驚くべき名演はもちろん、プロの演奏家になることさえ、誰も想像だにしないところだった。

さて、その後のチェリストとして十良の半生、そしてその音楽については、私も好きなだけに、ついつい読み手の関心のない、余計なところまで筆が滑りそうなのでヤメておくが、クラシック音楽を好む人、あるいは演奏する人にとって、極めて興味深く、かつ面白いことは保証しておく。特に音楽そのものについて語っている終章は、必読だろう。

ただ一点だけ、音楽に関して触れておきたい点がある。それはチェロ、そしてバッハの無伴奏チェロ組曲となれば、当然筆を割かれていてしかるべき、パブロ・カザルスについて、わずかしか触れられていないことだ。

カザルスと無伴奏チェロ組曲をめぐっては、世界的に認知されている一つの「大きな物語」がある。ちょうどこの五月に出た良書「無伴奏チェロ組曲」を求めて ─ バッハ、カザルス、そして現代 の帯裏に端的な記述があるので紹介しよう。

長い間、数学のように味気なく、無感動だとされてきたこの曲をドラマチックたらしめたのは、まさにパブロ・カザルスというひとりの男の類まれな人間性だった

あからさまな批判の言葉はどこにも記されていないが、おそらく十良は、この意見に否定的だろう。「80歳を過ぎてやっとバッハがわかってきた」「90歳になってから、バッハがほぐれてきた」という十良は、バッハの譜と対峙し、「現代的な解釈」を飛び越えようとしている。

読後に今一度その演奏を聴けば、その「音」だけの世界のなかに、あいまいさやゆらぎを含んだバッハそのものに、ひたすら真摯に迫ろうとする十良の姿が垣間見える気がするのだ。

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青木十良に関する本は、もう一冊出ている。

翔べ未分の彼方へ―チェリスト 青木十良の思索
作者:丘山 万里子
出版社:楽
発売日:1995-04-08
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こちらは、青木十良の語りをそのまま書き起こしたような、まさに生の声が記されている。

これを読むと、『チェリスト、青木十良』の著者の大原哲夫氏の優れた編集作業に思い至り、その苦労を想像する。

かといって「生の声」が悪いわけではなく、青木十良の実際のおしゃべりに触れるような喜びがあり、またまとめられていないからこそ、リアルに伝わってくるものもある。

特に彼の音楽そのものに興味がある方には、おすすめだ。

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