ストン、ストン、胸に落ちる音がする。『あわいの力』

土屋 敦2014年01月23日 印刷向け表示
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あわいの力 「心の時代」の次を生きる (シリーズ 22世紀を生きる)
作者:安田登
出版社:ミシマ社
発売日:2013-12-26
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著者は能楽師のワキ方である。「能」と聞いたときにまず多くの人が思い浮かべるのは面(おもて)を付けて舞うシテ方で、ワキ方というのは、ちょっと失礼な言い方をすれば、シテ方が舞っているときに、なんだか舞台の角で、素顔のまま、じっとしている人。面もつけず、笛も吹かず、鼓(つづみ)も打たず、舞台の進行役を務めたり、ときに立ち振舞を見せることがあるものの、全体としてはなんとも地味な存在である。

「媒介」という言葉で、著者はワキ方を説明する。亡霊があらわれ、ともに舞う「夢幻能」では、ワキ方は現実世界からはみ出た漂白の旅人などを演じる。そして亡霊と出会い、霊の思いを晴らす手助けをすることで、現実世界と異界とを「媒介」する存在となるのだ。

シテ方の面、笛方の笛、鼓方の鼓というように、能楽師にはそれぞれにとって重要な「お道具」がある。日々の修行によって芸を磨くことで、その「お道具」が潜在力を発揮するようになり、「お道具」を介して能楽師として高みに向かっていくわけだ。しかしワキ方にはそれがない。いや、ないのではなく、ワキ方の「お道具」は自身の体そのものだという。唯一無二の「自分自身の身体を響かせて声を出す。それが、ワキ方の道の第一歩なのだ。

そんなワキ方的なスタンスは、本書の語りでも貫かれている。著者はまさに自分の身体を道具として思考し、著者自身の思い描く世界と読者の日常世界とを媒介する。だから、「能」や、「古代文字」、「心」といった、これまでなにやらよくわからなかったことが、ストンと胸に落ちてきて、深く納得してしまうのだ。

例えば「能楽は六百五十年の歴史を持つ伝統芸能である」と言われれば、そうだろう、と思う。でもそれ以上のリアルさは感じられない。本書では著者はこんなふうに書く。

ある方が鼓の革を買ったとき、「この革はいまは鳴りません。でも、毎日打ち続けて50年経てば鳴り始め、一度鳴れば、六百年は使えます」と言われたそうなのです。その方は当時、三十五歳。つまり八十五歳になってようやくいい音が鳴り始めるということです。

八十五歳まで生きる保証はどこにもありませんし、毎日打てるともかぎらない、ひょっとしたら、その鼓がいい音を出すのは百年後、百五十年後かもしれない。

こんな例を出すだけで、過去、現在、未来を貫く能楽の太い脈流が目の前に現れたように、能楽の伝統について、そういうことか、と深く納得する。ストン、という音が聞こえるようなのだ。

あるいは、西洋音楽におけるリズムと、能における拍子の違いについて。

すごく簡単にいうと、リズムというのは、今の時点で存在しない未来をあらかじめ決めてしまうことです。たとえば四拍子の曲があるとします。指揮者は指揮棒を構えて一拍(一拍目の直前の一拍)を振る。するとそれに続く一拍目、二拍目がどう来るかが予測できます。棒を振った時点で、そこにはまだ存在しない未来の時間が決まっているということです。つまり、四拍子というのは、未来の時間をあらかじめ確定し、それ四等分すること。指揮者が一拍の長さを示すことで、それに続く未来が決まっていくのです。

 それに対して能の拍子は、「今」を刻むことだという。

たとえば鞠つき歌です。

西洋音楽のリズムに慣れた今の子たちは、自分が決めたリズムに合わせて鞠をつこうとします。すると、鞠の弾み方が狂うと途端に鞠つき歌が歌えなくなったり、鞠を取り損なったります。

鞠つき歌の本来の姿は、鞠の弾みに合わせて歌を歌うことです。いうなれば、鞠つき歌をどう歌うかは、鞠が決めているのです。

ここでまた、ストン。かつての整地されていない地面でつく鞠の、予測不能な弾み方に即応して、歌を歌う。その瞬間瞬間における「今」の弾み方の連続が、拍子を作っていくというわけだ。

そして師匠が弟子をほめない、ということについて。

教える人も教わる人も常に変化を続けていくのが稽古であり、学びです。

弟子の芸を見て、それを「いい」と言ったら、それは師匠自身が進化することを止めてしまっていることを意味します。自分が今いる地点を基準に、それへの到達具合を良し悪しで判定するということです。

自分が稽古を積んできた経験から、何がダメかというのはわかります。それを目の前の弟子がやっていたら、「違う」と指摘できるわけです。

が、師匠が進化を続けているかぎり、仮に目の前の弟子がうまくできていると思っても、それが「いい」かどうかはわからない。そのときの自分からをうまく見えても、もう十年も稽古したら、「あれは違っていた」ということになるかもしれない。

だから、「よし」と言うこともしなければ、ほめることもしないのです。

能の稽古、さらには日本の芸道に道を踏み入れることは、「終わりなき変化の世界に投げ込まれてしまうこと」だという。ここでもやっぱり、ストン、だ。

こんな話が、そこかしこに散りばめられている。さらにすごいのは、それらが、ただ並列的に示されるのではない、ということ。多様な話題は、ひとつのところに収斂していくのである。たとえばこんな話題。

現代は、余命宣告をするのがふつうになっています。

宣告によって未来の時間を確定させ、残りの日々を充実させようという考えはわからなくはないのですが、やはりこれは極めて西洋的な発想です。存在しない未来のバーチャルな「死の時」を目の前に存在させ、そこまでの時間を等分に割って日々を生きていく、まさに西洋音楽の「リズム」と同じです。

この生身の体には、未来という観念はありません。あるのは「今」というこの一瞬のみ。この刻一刻に、身体から得られるさまざまな感覚のみです。

普段の一瞬一瞬の「今」を充実させて、気がついたら死んでいたというのが理想的な生き方ではないかと思います。

(中略)未来を決めるリズムではなく、今を刻む拍子で生きる。
それが、「あわい」の力です。

そう、収斂してゆく先にあるのは本書の題名にも使われている「あわい」という言葉である。冒頭に、能楽のワキ方は「媒介」する存在、と書いたが、実は「あわい」とは、媒介を意味する古語。この「あわい」こそが、著者は現代の行き詰まった「心の時代」を脱却するために必要なものではないか、というのである。

そのために、まずは、「心」の誕生から探ろうとするのだが、そのやり方が実にエキサイティングだ。詳細にご紹介することはできないが、例えばこんな話題が次々と飛び出す。甲骨文字から、殷の時代、人狩りの対象とされ、捉えられたのちにしばらく生かされた後に神への生け贄として殺害された羌族について語り、彼らが反乱を起こさなかったのは心がなかったからだ、と論じる。さらには、ヘレン・ケラーは文字を知ったとき、初めて後悔と悲しみの感情を知ったこと、HONZでも話題になった時制を持たないピダハン族の話などから、時間認識と心の関わりを指摘し、そこから生まれる、悲しみや不安といった「心の副作用」に言及する。さらにはイエス・キリストの「憐れみ」と内蔵が動く感覚、楔型文字から見える、子宮と憐れみとの関わり、心と呼吸との関係性、そして自己と外界をつなぐものとしての「あわい」の存在……。

著者にしか考えつかない、自身の能楽師としての身体感覚に基づいた、まったくオリジナルな思考が繰り出され、最後まで実に心地よく、ストン、ストンと胸に落ちまくるのだ。

ただし、気をつけなくては、とも思う。「あわい」の力とは、外界をしっかりと体で受けとめることで、見えないものを見て、聞こえない音を聞く力でもあるのだ。著者の身体的思考から立ち現れた言葉の数々を、安易に分かった気にならず、もうちょっと時間をかけて、体が理解するまで、自分自身の中に滞留させ、じっくりとじっくりと味わいたいとも思うのである。  

意味の変容 (ちくま文庫)
作者:森敦
出版社:筑摩書房
発売日:1991-03-26
ワキから見る能世界 (生活人新書)
作者:安田 登
出版社:日本放送出版協会
発売日:2006-10
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