『枯れるように死にたい 「老衰死」ができないわけ』解説 by 小鳥輝男

新潮文庫2014年05月18日 印刷向け表示
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枯れるように死にたい: 「老衰死」ができないわけ (新潮文庫)
作者:田中 奈保美
出版社:新潮社
発売日:2014-04-28
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私は滋賀県で開業している一医師である。

平成19年より「三方よし研究会」を主宰している。この研究会は看護師、薬剤師、リハビリ技師、歯科医師、医師などの多職種で構成されている。発足当初は「東近江地域医療連携ネットワーク研究会」と呼ばれ、多職種が連携を図り、脳卒中患者が、あらかじめ指定された急性期、回復期、維持期の病院や施設を、納得してもらった上で移ることにより、能率良く地域の医療資源を利用することが検討されていた。いわゆる脳卒中連携パス研究会である。そこでは患者も病院もウィン、ウィンの関係が語られた。しかし医療に勝った、負けたはそぐわない。むしろ、地元近江商人の家訓である「売り手よし、買い手よし、世間によし」の「三方よし」にならい、「患者よし、機関よし、地域よし」をモットーに顔の見える関係づくりをめざした地域連携の研究会として「三方よし研究会」と名付けられた。

やがて月一回の研究会を重ねるうちに、脳卒中だけでなく、医療を取り巻くいろいろの問題も取り上げていこうとの意見が会員の中から出てきだした。そのひとつが胃ろうの是非に関する問題提起であった。

ちょうどその時期に田中奈保美さんが本書の単行本を発表された。そこで、会員たちが田中さんを呼んで市民公開講座を開こうと動き出した。わが会員のフットワークは良い。やがて計画は進み、平成23年12月18日に市民講座は開催された。私は医師会長として講演の最後のまとめ役を受け持った。私の結論は高齢者の看取りに大切なことは家族の愛情と覚悟ということであったが、田中さんもそのとおりと言ってくださった。田中さんと私の付き合いは、それから始まっている。

本のはじめにこうある。

「病気でもないのに病院に送るとはなにごとだ! ねえ、きみ、おかしいと思わない。病院は病気を治すところであって、亡くなった年寄りを送るところじゃないでしょ」

夫はけっこう怒っていた。しかし、怒りの矛先がなく、とりあえず身近な私に投げかけてきたのだった。

今の日本では、死は病院で迎えるものと思われている。老健、特養(施設)の職員もそう思い込んでいる。だから、お年寄りは老衰で食べられなくなると、病院へ自動的に送られていた。しかし田中さんの夫である佐藤順先生は方針を転換し、職員の猛反対の中、家族が望めば施設で最期を看取ることを決意された。なぜか。人は老衰してくると、口からものを受け付けなくなり、枯れるように亡くなってゆくのだと、これまでの看取りの経験からよく知っておられたからだ。先生のお考えは、老衰で亡くなりつつある高齢者は病気ではない、病院に送る必要はない。病院は難しい病気を治すところだ、という信念があった。

病院に送られた高齢者はどうなるか。食べられない病人として、胃ろうもしくは鼻から胃へチューブを差し込んで栄養を送り込めば、生命だけはいとも簡単に延長することができる。そしてやがて意識もなくなり、時には何年も生きることになるのである。

「医師はときに命の残りの時間が見えたときでさえ、医術を尽くして1分1秒でも人命を延ばす傾向がある」と佐藤先生は言われる。が、人間の終末期に大事なことは医療ではなく、「住み慣れたところで家族が寄り添い命の残り時間を共に過ごすことではないか」と自らの体験を踏まえて訴える。

なぜ施設の職員は入院させたがるのか、家族もそれに簡単に同意してしまうのか。それは今の日本人の死に対する意識の未熟さにあると田中さんは言われる。「大人たちはどれほど死をリアリティをもって豊かに想像できるのだろう。病気の果ての死ではなく、老衰の先にある自然な死をイメージできているだろうか。高齢者の死に対する無関心、身近なお年寄りの終末期の尊厳をないがしろにして平気でいられる今の日本の大人たちの姿を見ると、子どもたちが『人は死んでもまた生き返る』とわけのわからないことをいうのは当然の結果なのかもしれない、いやないがしろにしているという意識すらないといったほうが正しいのかもしれない」と。胃ろうの是非もさることながら、本書の真髄はここにある。

「今の日本人には意識すらない」のが実情である。親が老衰してくると小生も往診を依頼されるが、大体が訪問一番、「どこか入院できるところをさがしてください」と訴えられる。私は在宅看取りに最も適した高齢者だと思うのだが、そこで死とか生とかを説明しだしても遅い。家族も自宅で看取る気が最初からない。結局は入院場所を探すこととなる。私の立ち位置は、悲しいことだが、やる気のない家族に在宅看取りは勧めない。本書を読まれた方は老若男女を問わず、生への感謝と、死を真正面から見つめることを忘れてはならないこと、また老衰の先にある死は自然死であることをよく理解していただけると思う。

私は三方よし研究会の代表として、全国あちこちから講演を依頼される機会が多い。先日もある市で医師がたくさん参加している講演会で話をした。そこで胃ろうに批判的な意見を述べた。自然死への理解がなく、老人に非常な苦痛を味あわせていると。講演のあとに意見交換の場が設けられていたが、あらかじめ配布されていた感想用紙には、多分胃ろう賛成派の医師だろうと思われるが、「上から目線だ」との書き込みが多数見受けられた。私はこの意見に対しては、あえて言及しなかったが、胸にはわだかまりが残った。そこで、この件につき田中さんに感想を求めてみた。

田中さんのお返事の中から、印象的なコメントをご紹介しよう。

「『死の準備教育』で知られるアルフォンス・デーケン先生は人間の死を肉体的な死だけでなく、四つの側面に区別しています。その四つとは「心理的な死」、「社会的な死」、「文化的な死」、「肉体的な死」です。意識なく胃ろうで生かされている患者さんについていえば、天井だけを見つめて毎日を送る患者さんの生活に文化的な潤いはまったく、といってありません。社会的にはどうでしょう。病院や施設での一人きりの毎日。家族は訪ねてきてくれるのでしょうか。たとえ来てくれたとしてもすでにコミュニケーションをとることができないとしたら、社会的にも瀕死の状態です。心理的にはどうでしょう。生きる喜びを実感したり、明日への希望や夢はあるのでしょうか。心理的にも社会的にも文化的にも死んでいるか、もしくは瀕死の状態にあって、身体だけは人工的な医療の力で生かされている生命の意味とは、いったいなんなのでしょう。誰のため、何のための医療なのか疑問に思うのは私だけでないと思います。

人間が生きるとは、苦しみや悲しみ、死にたくなるような絶望を味わうことではあります。それでも人間が今日を生き、明日も生きていこうと思えるのは、それと同じくらいの数の喜びや感動、幸せ、笑いがあるからです。

自然のままであればとっくに亡くなっている人を、夢も希望も持ちようのないまま、器具や機械を使って人工的に生かして、苦しみや絶望といった地獄を味あわせ続ける権利や決定権が医師にあっていいものかと思います。

意識のないまま、胃ろうで生かされているお年寄りは、果たして人として生きているといえるのでしょうか。医療の目的とは本来は患者がよりよく生きるためにあるはずです」

読者のみなさん、ゆめゆめ自然死で極楽に行こうとされているご老人を、不要の胃ろうという医療手段を介在させて、地獄でエンマ様に会わす愚挙を犯してはなりませぬぞ。

(2014年2月、医師)
 

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