スパコン「京(ケイ)」はカイコ蛾脳の夢を見るか 『サイボーグ昆虫、フェロモンを追う』

仲野 徹2014年08月14日 印刷向け表示
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サイボーグ昆虫、フェロモンを追う (岩波科学ライブラリー)
作者:神崎 亮平
出版社:岩波書店
発売日:2014-07-30
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素直に驚いた。こんなことができるのか。こんなおもろい研究があるのか。若い頃に戻れたら、こういう研究をしてみたい。いずれ役にたつ、と書かれているが、そんなことはどうでもいい。純粋におもろい研究だ。  

絹産業の歴史があるので、いまはかなり廃れているとはいえ、カイコ蛾を用いた研究は日本のお家芸だ。産業的な利用だけではない、絹糸の主成分であるフィブロインというタンパクの遺伝子発現や、最近では、性決定のおもしろいメカニズムなど、世界に誇りうる基礎的な研究も多い。

残念ながら日本人による発見ではないが、フェロモンの存在が最初に示されたのはカイコガである。そして、カイコガのフェロモンは、日本からドイツへと送られたメスのカイコガ50万匹から純化され、化学的構造が決定された。

あの人はフェロモン系だ、とかいうことはあるけれど、幸か不幸か、ヒトにフェロモンはない。フェロモンというのは、異性を誘引する物質であり、カイコガではメスのお尻にあるフェロモン腺で作られる。オスは、空気中に漂う極めて少量のフェロモンを触覚によって感知し、数キロも離れたメスを探索できるという。

探索といっても、カイコガの行動制御そのものは単純である。フェロモンの匂いを感知すると、フェロモンのある方向に進み、感じなくなると、感じるまでジグザグ運動や回転運動をおこなう。そうすることによって、着実にフェロモンの発生源であるメスに近づいていける。

では、どのようにして、フェロモンを感知した脳が、フェロモンに向かわせるように行動を指示するのだろう。それを調べるのが、この本の著者・神崎先生たちのテーマである。アプローチは大きく分けて二つ。カイコガを用いたロボットの作成と、カイコガの脳を詳しく解析して作った電脳である神経回路モデルを用いたシミュレーションだ。

まずはロボット。このYouTube画像を見てもらいたい。

オスのカイコを玉乗りさせて、その玉の動きを光学センサーで感知して、車輪に伝えている。そんなことさせんでも、直接歩かせればいいのに、と思われるかもしれない。それは素人のあかはかさ、あかさたな。このロボットを利用して、動きにひとひねり加えることができるのだ。

たとえば、ビデオにあるように、右側の車輪を四倍のスピードで動くように制御することが可能だ。そうなると、実際のカイコガの動きよりも左方向に偏ってしまうことになる。カイコガ、どないなっとんのや、と、とまどうに違いない。しかし、そんな状況におかれても、ちゃんとフェロモンのある方向に進んでいく。わけのわからないがおこっても、視覚情報を利用して行動を補正する能力がそなわっているのだ。

これがサイボーグかというと、『生命体(organ)と自動制御系の技術(cybernetic)を融合させたもの(ウィキペディア)』という定義からいうと、違う。出力を制御できるとはいえ、カイコガが玉乗りしているのを機械で模しているだけなのだから。しかし、すでに、このロボットの発展型としてのサイボーグが作られている。

この写真の右下、拡大図を見てほしい。ぱっと見たら、カイコガがいるかのように見える。もっとよく見てほしい。カイコガの触覚と目と脳だけしかない。その脳から電極を通じて機械につながれているのだ。フェロモンを感知する触覚、それを感じて筋肉へと指示を出す脳、そして、玉乗りロボットから明らかになっている視覚による制御のために必要な眼。その三つが、電極を通じて車を制御する。

ちっこいとはいえ、ここまでくれば立派なサイボーグだ。このサイボーグも、右側四倍速とかを補正することが可能で、約7割の率でフェロモンに到達することができる。たった7割と思うのは、あさはかな、あかさたな。一個の神経細胞からとりだした電気的刺激を増幅しただけでそこまでいくのは驚異だ。

もうひとつ、この研究室では、いわば逆向きのアプローチの研究もおこなわれている。それはシミュレーションだ。ちょっと込み入った話になるので、詳しくはこの本を読んでもらうしかないが、コンピューターで人工的に神経回路を作るという研究である。

そのプロトタイプともいえるロボットがこれだ。これもサイボーグと言っていいかもしれない。カイコガの触覚でフェロモンを感知させ、感知した電気刺激を、2個の神経細胞をシミュレーションした回路を介してロボットを動かすという実験だ。

実際にそのような運動にかかわる神経細胞は約350個ということであるから、2個というのは単純すぎる。しかしそれでも、ぎこちなくではあるが、ちゃんとフェロモンに近づいていくという。たいしたもんだ。さらに、こういった研究を、脳全体に広げていこうという壮大なプロジェクトもおこなわれている。

カイコガの神経細胞の数はおおよそ10万個。ヒトの一千億に比べると、はるかに少ない。しかし、10万個の細胞すべての神経活動を記録するのは不可能である。そこで、コンピューターによるシミュレーションがおこなおうとしている。

神経細胞の解剖学的なデータを元に、いくつかの単純な仮説をいれて、計算をおこなって、神経回路をモデリングする。これとて、膨大な情報処理が必要である。単純化したモデルであっても、現在、1万個くらいの神経細胞によるシミュレーションが限界。それをリアルタイムで動かそうとすると、日本が誇る『京』レベルのスパコンが必要なのだ。

ここまで読んでいただいたら、今回の、すこし風変わりなタイトルの意味がわかっていただけただろう。カイコガが夢を見るかどうかは知らない。たぶん見ないだろう。しかし、もし見るようなことがあるならば、その夢を電脳の中で再現できるかもしれないのだ。そんな時代はそこまで来ている。

神経細胞が十万個というカイコガくらいの脳であれば、脳機能をリアルタイムでシミュレーションできる時代がやってくるかもしれない。すごいことだ。しかし、一千億もの神経細胞があるヒトの脳では、遠い将来は別として、ほぼ不可能だろう。カイコガさんの研究から、ヒトの脳は気が遠くなるほど高度であることにあらためて感動した。

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