『キム・フィルビー かくも親密な裏切り』 20世紀最悪のスパイは友情を武器にした

村上 浩2015年05月22日 印刷向け表示
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キム・フィルビー - かくも親密な裏切り
作者:ベン・マッキンタイアー 翻訳:小林 朋則
出版社:中央公論新社
発売日:2015-05-08
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キム・フィルビーはすべてを手にしていた。英国上流階級出身、ケンブリッジ大学卒業、愛する妻子と多くの気が置けない友人。仕事においても、上流階級出身の特別なコネクションを持つ者だけが所属できる英国スパイ組織MI6の出世の階段を誰よりも早く駆け上っていたのだから、足りないものを探すほうが難しい。1940年に28歳でMI6入りした彼は、イスタンブール勤務などを経て、40歳を前にMI6のワシントン支局長に就任し、多くの同僚が未来の長官だと信じていた。

フィルビーの特異なところは、並外れた身体能力、多言語を操る頭脳や暗殺スキルなどのスパイ技術の高さで出世競争を勝ち抜いたわけではないというところにある。彼を傑出したスパイにしたのは、“人間としての魅力”である。ひとたびフィルビーと言葉を交わせば、誰もが彼の友人になりたがった。当時の彼を知る人は次のように語っている。

彼は、崇拝者を勝ち取る類の人間だった。皆、ただ好きになったり、敬愛したり、賛同したりするのではない。彼を崇拝するのだ。

その魅力を武器に次々と困難を乗り越えていく姿は最高にエキサイティングで、読み進めるほどにあなたもフィルビーに魅せられていくはずだ。さらに本書には、国家の命運をかけた秘密作戦、洒落た紳士たちの優雅なパーティー、そして大きな裏切りというスパイ読み物に必要なすべてが詰め込まれている。あまりの面白さと急展開に、ノンフィクションというより007のようでもある。「ジェームズ・ボンド」シリーズの作者であるイアン・フレミングは情報機関の若手として同時代を過ごしており、その体験を007の物語に盛り込んでいるので、本書のエピソードとの類似は偶然ではない。

完璧に思えるフィルビーにはひとつだけ、誰にも言えない秘密があった。この男は、MI6に入る前から共産主義を信奉する、ソ連のスパイだったのだ。フィルビーがソ連へ漏らした情報のために命を落とした西側諸国の工作員や関係者は、数百から数千人にまで及ぶという。このたったひとりの天才スパイによって、膨大な予算をつぎ込んだ西側の必死の諜報活動は「何もやらないほうがましだった」、「マイナス効果」だったと言われるほどに大きなダメージを負った。

“20世紀最悪のスパイ”とも称されるフィルビーについては、既に多くの書籍が出版されており、小説や映画のテーマにもされてきた。しかしながら、これまでの作品は冷戦をめぐる政治とイデオロギーが中心テーマとなっており、フィルビーの人物像が伝わるようなものではなかった。『ナチが愛した二重スパイ』や『英国二重スパイ・システム 』など多くのスパイ・ノンフィクションを手がけてきた著者は、友情と英国階級社会にフォーカスをあてることで、この非凡なスパイがどのように生まれ、どのようにふるまい、何を求めて祖国を裏切ったのかを物語っていく。

友情がメインテーマとされた本書にはもう一人の主人公がいる。それは、フィルビーと同じく英国上流階級に生まれ、ケンブリッジ大学を卒業して一足早くMI6に入っていたニコラス・エリオット。彼は4歳上のフィルビーを、かけがえのない親友だと信じ、いつでもフィルビーを信じ、守り抜いてきた。フィルビーがスパイ容疑をかけられたとき、エリオットは先頭に立って彼の潔白を主張した。

この二人を強く結びつけた英国の階級制度が、社会にどのような影響を与えているのかがありありと見て取れるのも本書の読みどころのひとつである。上位中産階級と貴族階級で構成されるMI6と中産階級・労働者階級が大多数を占めるMI5の緊張関係は、ある意味では必然のものだった。MI6とMI5の間に流れる不協和音を巧みに利用したからこそ、フィルビーは危険な二重スパイ生活をこれほど長く続けることができたのである。

フィルビーは、あるときは本気でエリオットを心の支えとし、またあるときは自己の利益のために徹底的にエリオットを利用した。西側と東側に向けて全く異なる二つの顔を使い分けるフィルビーを見ていると、本当の自分とは、本当の友情とは何であるかを考えずにはいられない。多くの人間を死に追いやりながら、秘密を守り通す緊張感から開放されることもなく、親友を裏切ってまでフィルビーは何を求めたのか。人間的魅力を武器にした20世紀最悪のスパイの生き様には、読む者の価値観を揺さぶる何かがある。

原爆を盗め!: 史上最も恐ろしい爆弾はこうしてつくられた
作者:スティーヴ シャンキン 翻訳:梶山 あゆみ
出版社:紀伊國屋書店
発売日:2015-02-28
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人類史上最凶の兵器開発は、国家の命運を握る秘密作戦だった。そして、秘密があるところにはスパイがいた。政治家、スパイ、科学者たちがその全勢力を捧げた原爆開発レースの真実を伝える一冊。レビューはこちら

英国二重スパイ・システム - ノルマンディー上陸を支えた欺瞞作戦
作者:ベン・マッキンタイアー 翻訳:小林 朋則
出版社:中央公論新社
発売日:2013-10-09
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ドイツを騙し抜き、ヒトラーの頭のなかまで筒抜けにしたという英国二重スパイ・システムの全容を明らかにする一冊。鰐部祥平のレビューはこちら

三重スパイ――CIAを震撼させたアルカイダの「モグラ」
作者:ジョビー・ウォリック 翻訳:黒原 敏行
出版社:太田出版
発売日:2012-11-22
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CIAに史上最大級の被害をもたらした三重スパイ。アルカイダとアメリカの闘いの現場の緊張感が伝わってくる一冊。レビューはこちら

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ノンフィクションはこれを読め!  2014 - HONZが選んだ100冊
作者:
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