名作ノンフィクションの舞台裏『探検家の憂鬱』

野坂 美帆2015年05月27日 印刷向け表示
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探検家の憂鬱 (文春文庫)
作者:角幡 唯介
出版社:文藝春秋
発売日:2015-05-08
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チベットから富士山、北極までもっと行けるんじゃないか 極地における死の不安、水虫疑惑、性欲の不思議…極限の青春ノンフィクション

この帯文だけで買ってしまった。やめてほしい。心惹かれる帯文で読者を釣るのは。だがしかし、本書に関しては、もっと煽っても文句はない。ノンフィクションの裏側を覗くことのできるこのエッセイ、とんでもなく面白い。もっと早く読めばよかった。いいんだろうか、文庫の値段でこんなに楽しんでしまって。申し訳ない気持ちになるほどである。

著者、角幡唯介氏といえば、押しも押されぬ売れっ子ノンフィクション作家である。『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』で開高健ノンフィクション賞、大宅壮一ノンフィクション賞、梅棹忠夫・山と探検文学賞を受賞。続く『雪男は向こうからやって来た』で新田次郎文学賞、更に『アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極』で講談社ノンフィクション賞と、自身が関わった探検ノンフィクションはすべてが大きな文学賞に輝くという、間違いなく今最も動向を注目される探検家であり、ノンフィクション作家だ。

本書はそんな角幡氏が2012年に出版した『探検家、三十六歳の憂鬱』を改題文庫化したものである。しかも赤裸々にエロについて語ったエッセイ「極地探検家の下半身事情」を一篇追加し、更に刊行からの3年分を埋めるようにブログ記事を挿入、また文庫版あとがきとして「イスラム国事件に対して思うこと」を添えるという、これでもかというほどにサービスされた超お得な文庫版なのである。信じられない。単行本で買ったという方もぜひ追加でご購入されたい。

しかし笑える。笑っていいのだろうか。でも笑える。角幡氏は、コンパの戦績を嘆き、無謀な大学探検部時代の失敗談を語る。雪山での判断ミスに、おい!と突っ込みたくなり、文庫化で追加された下半身事情については、ふむ、そんなものなのかと納得させられつつも吹き出してしまう。

探検家などという勇ましい肩書で商売をしていると、人からは沢田研二が「サムライ」で歌ったようなロマンチックでストイックな人間だと思われることが多い。世間的な幸せには背を向けて、肩で風切って荒野を目指す、そういう自分の理想に殉じるような人間像である。

そんな人間像に異を唱えるように、自身をチャーミングに、赤裸々に語る。探検家だって普通の人間と変わらない生活があり、逡巡や不安があり、とぼけた部分やエロもあり、うっかりミスもある。本書の中にいる角幡氏は、孤高の人ではない。隣のお兄さんなのである。

しかし、隣のお兄さんは親しみある文章にのせて、探検家でありノンフィクション作家でもあることの苦悩を垣間見せ、冒険とはいかなるものか、論を張る。北極探検家・荻田泰永氏との対話から、極限環境でのひりつくような体験に思いをはせ、熱気球による太平洋横断に挑み消息を絶った神田道夫氏について語る中で、冒険家・探検家の業を示す。私たちが普段体験することのない生と死の境目に惹かれる狂気に、一転ぞくりとさせられる。

どこを旅すればツアンポー峡谷で体験したような生の淵の、できればもう一歩先まで到達し、しかも都合よく生還することができるのだろう。ツアンポー峡谷の旅から帰国した翌年、私はカナダの北極圏を千六百キロにわたり友人と二人で放浪した。次はもう少し条件を厳しくして、太陽すら昇らない極夜の冬の北極を単独で旅したいと思っている。私は自分がもう少し先まで行けるのではないかと思っているのだ。あの絶望した時の感覚を、もう少しはっきりと感得し、明確な言葉を与えたい。あと一歩だけぎりぎりの光景を見て帰ってきたいのだ。

何でもないように語られる言葉には、得も言われぬ凄味がある。そこには隣のお兄さんの顔はない。

「震災―存在しなかった記憶」は、角幡氏の東日本大震災体験記である。角幡氏は当時日本におらず、カナダ北極圏に滞在中であった。後に『アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極』としてまとめられる探検に出発する直前だった。彼は地震の報を聞きつつも3月16日、予定通りに旅を始めた。角幡氏は、震災から半年たった9月、自分の震災体験を埋めるために被災地を巡る。非国民という言葉を投げられて、それが妙に居心地よく腑に落ちたという。彼には震災について語らないという選択肢もあったはずだ。ノンフィクション作家としての誠意と、探検家としての覚悟が感じられる章だ。

温かく親しみ深い人間性と、探検家としての孤高性、ノンフィクション作家としての冷徹さ、そのどれもが角幡氏の魅力だ。長編ノンフィクションの舞台裏をのぞくことができるのも嬉しいが、作家の内実に触れることで、更にその作品を深く味わうことが出来るだろう。ノンフィクションファンには特におすすめしたい一冊である。

また現在、ナショナルジオグラフィック日本版に「グリーンランド滞在日記」を連載中。極夜の中凍った海峡を越え、グリーンランドからカナダまで単独踏破しようという計画の準備を綴った臨場感あふれるルポは必読だ。

本書中「雪崩に遭うということ」内で、立山での雪崩遭遇についての話があった。その時は早く富山側に下山して焼肉を食べたいとの思いから、判断を誤ったとのことだ。経験豊富な探検家の判断を誤らせるほどの焼肉とはどのようなものであろうか。富山県在住者としては気になって仕方がない。
 

謎の独立国家ソマリランド
作者:高野 秀行
出版社:本の雑誌社
発売日:2013-02-19
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角幡氏は以前HONZに寄稿してくださったことがある。早稲田大学探検部の先輩・高野秀行氏の『謎の独立国家ソマリランド』レビューはこちら

『アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極』東えりかのレビューはこちら。鰐部祥平のレビューはこちら

雪男は向こうからやって来た (集英社文庫)
作者:角幡 唯介
出版社:集英社
発売日:2013-11-20
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成毛眞による『雪男は向こうからやって来た』+早稲田大学探検部出身作家レビューはこちら

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