『市場は物理法則で動く 経済学は物理学によってどう生まれ変わるのか?』

白揚社2015年08月02日 印刷向け表示
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市場均衡、合理的期待、効率的市場仮説...。これまでの経済思想では、もはや現実の世界を説明することは出来ない。物理学の視点から、経済学の常識へ果敢に切り込んだ『市場は物理法則で動く』。本書の翻訳者解説と、物理経済学の歴史的な経緯を紐解いたソニーCSL研究所・高安秀樹氏による解説記事「経済物理学の誕生と発展」を併せて掲載いたします。(HONZ編集部)

市場は物理法則で動く―経済学は物理学によってどう生まれ変わるのか?
作者:マーク・ブキャナン 翻訳:熊谷 玲美
出版社:白揚社
発売日:2015-08-02
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「『今回は違う(This time is different)』というのは、4つの単語からなる言葉の中で最も高くつくものだ」。これは、バリュー投資家として有名なジョン・テンプルトンが残した株式相場の格言である。

リーマン・ブラザーズ破綻直後の2008年9月、ある新聞コラムは、このテンプルトンの格言を引用してこう書いている。「テンプルトンが戒めた『今回は違う』という風潮は、バブル崩壊の初期に広がる。崩壊の怖さを知っているのに、いざ直面すると事実を認めたくなくなる投資家の希望的な心理だ。『銀行が損失を隠し続けた日本とは違う』。4月、米議会で90年代の日本の金融危機との比較を問われたバーナンキ米連邦準備理事会(FRB)議長の発言だ。この油断が対応の遅れた伏線ではなかったか」(2008年9月30日付 日本経済新聞朝刊「一目均衡」より引用)。

過去に何度も起こってきたような危機的状況を目の前にしても「今回は違う」と考える背景には、経済システムは本質的に安定的で自己調整されており、常に均衡状態に向かうものだという、経済学の考えがあるようだ。本書の冒頭では、2010年春に起こったフラッシュクラッシュ(株価などが数分という短 時間で瞬間的に急落する現象)を取り上げている。この原因は、通常の取引から始まった「正のフィードバック」だった。正のフィードバックとそれによって生じる不安定性は、「超新星から惑星の生態系、地球の気候、さらには地球の地殻の動き」まで、自然界ではいたるところにみられる。

しかし、米国証券取引委員会(SEC)などによる最終報告書では「正のフィードバック」という言葉は使われなかった。経済学、特にファイナンス論の基礎である「均衡」という概念に反するからだ。そうした現在の経済学は、「中世の物理学」に等しいものであり、必要とされるのは、自然界にみられる「非平衡系」の概念を取り入れた「不均衡」の経済学だ。そう著者は主張する。

本書『市場は物理法則で動く』の著者マーク・ブキャナンは、物理学で博士号を取得後、『ネイチャー』 『ニューサイエンティスト』等の編集者を経て、現在はサイエンスライターとして活躍している。これまでに、『歴史は「べき乗則」で動く』(早川書房)、『複雑な世界、単純な法則』(草思社)、『人は原子、世界は物理法則で動く』(白揚社)という3冊の著書があり、非平衡物理学や複雑系科学、ネットワーク科学などを中心的なテーマとしてきた。

4冊目の本書でも、それらがキーワードであることは変わらない。しかし本書のトーンは、今までの著作とはやや違っている。これまでは、自身の専門である物理学を土台に、「歴史物理学」や「社会物理学」といった新たな視点から人間や社会を読み解くことを試みてきた。一方、経済物理学がテーマの本書では、市場均衡や合理的期待、効率的市場仮説といった、主流派経済学の中心的な思想がいかに現実の世界を説明できていないかという、経済学そのものの問題に鋭く切り込んでいる。

著者が本書で経済学に軸足を置き、主流派経済学に対してときには相当に厳しい批判を展開する背景にはおそらく、前作(2007年)の発表後に米国の住宅バブル崩壊を発端として発生した、世界金融危機の衝撃があるだろう。著者は現在も、経済メディアのブルームバーグニュースが運営するサイト「ブルームバーグ・ビュー」に経済を中心としたコラムを連載しているほか、2011年から「The Physics of Finance」(ファイナンスの物理学)というブログを運営するなど、本書刊行以後も経済物理学の分野で精力的な執筆活動を続けている。

もちろん著者は、やみくもな経済学批判をしようというのではない。まずは経済学やファイナンス論の歴史を振り返り、経済学が現在の形になるまでの経緯をじっくりと考察している。そして、物理学を初めとする科学分野の成果を経済学に取り入れることについて、具体的な提案をしていることにも注目すべきだろう。

例えば、天気予報で使われている「アンサンブル(集団)予報」(初期値などの条件が少しずつ異なる数値シミュレーションを多数おこない、その結果の平均を取る手法)を、経済学やファイナンス論にも応用することを考えている。具体的には、金融システムに存在する複雑な相互作用ネットワークの広がりをシミュレーションすることで金融市場の将来を予測する、国や地域レベルの「金融予測センター」だ。

この訳者あとがきを書いている時点では、ギリシャがIMFへの融資返済の期限を迎え、事実上の債務不履行に陥ったことが報じられている。中東情勢も混迷を極め、世界の先行きを見通すことは非常に難しい。そうした不透明な状況のなかで、金融危機は今後も起こるだろう。それを確実に予測することはできないかもしれない。しかし予測し、回避できる問題もある。それには、ほかの科学の理論を取り入れた、新たなツールが必要とされるのである。

アルゴリズム取引が全取引の50%以上を占め、光速に近いスピードでの高頻度取引がおこなわれている現在、もはや人間の直観にもとづく知識だけでは経済の未来を見通すことはできない。均衡という幻想を捨て、科学が既に蓄積してきた非平衡(不均衡)という概念を取り入れることは、経済学とファイナンス論にとってもプラスになる。私たちはそうした変革の時代にいるというのが、著者の見方である。

2015年夏 熊谷 玲美(翻訳家)

次ページ以降、ソニーCSL(コンピュータサイエンス研究所)・高安秀樹氏の解説「経済物理学の誕生と発展」を特別に掲載いたします。

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