『市場は物理法則で動く 経済学は物理学によってどう生まれ変わるのか?』

2015年8月2日 印刷向け表示
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解説――経済物理学の誕生と発展 

ソニーCSLシニアリサーチャー・高安 秀樹

なぜ物理学なのか?

「市場を支配している物理法則はなんだろう」。これは、私自身が1980年代の後半に市場変動の研究 を始めたときから、現在に至るまで一貫して抱いている疑問である。物理学は物質の科学ではないのか、といぶかしく思う方もいるかもしれないが、最先端の物理学は物質の究極の姿を研究するだけでなく、大げさに言えば森羅万象が研究対象である。実際、日本物理学会には「社会経済物理」というセッションがあり、多数の物理学者が、市場だけでなく、企業の取引関係の分析やブログの書き込みデータの解析などの研究発表をしている。しかし、物理学と社会経済との関係は、実は、物理学そのものの誕生時にまで遡る。

物理学の研究方法を確立させたのは、いわゆる科学革命の4人の立役者である。その4人とは、1000年以上信じられていた天動説に疑問を呈し地動説を唱えたコペルニクス、物体の落下の実験を行い、コペルニクスの本に触発されて自作の望遠鏡で惑星や衛星の詳細な運動を観測したガリレオ、惑星に関する膨大な観測データを分析し3つの経験則を見出したケプラー、そして、ケプラーの三法則をより基本的で普遍的な万有引力の法則と力学法則から導出したニュートン、である。

ある未知なる現象に直面したとき、まず常識を捨て、実験や観測を積み重ね、データから経験則を確立し、すっきりとした理論を作る、この一連の科学的研究手法そのものを、物理学者は「物理」とよぶ。ちなみに、「物理学」と翻訳されるphysicsという言葉は、理屈を究める学問として江戸時代末期には「究理学」ともよばれていた。欧米では、physics は science(科学)とほぼ同義語として扱われており、研究対象を物質に限定しているわけではない。

この科学革命の立役者らが、実は、経済に極めて重要な寄与をしていたのは、あまり知られていない。

16世紀、それまで数百年の間安定していたヨーロッパの経済が、インフレによって大混乱に陥った。このとき、インフレの原因が、航海技術の発展によって新大陸から持ち込まれた大量の金や銀のせいであることを突き止めたのは、コペルニクスだった。彼は、通貨の役割を果たしている金や銀の量が増加するとインフレが起こることを論文にまとめたが、その論文は、最も古いインフレに関する論文として経済学でも高く評価されている。コペルニクスは、元祖物理学者であり、元祖経済学者だったことになる。

17世紀になり、ガリレオは、当時流行っていたサイコロギャンブルの経験則(サイコロを三つ投げたとき、目の和が九になる場合よりも10になる場合の方が多い)を説明するために、場合の数を数え上げるという確率論の基盤となる考え方を見出している。ギャンブルも経済活動の一つであるとすれば、経済現象を確率論の視点から解析する先駆的な研究と言える。

同じく17世紀後半、晩年のニュートンは造幣局長官に転身し、英国経済の発展に大きな貢献をした。 金と銀がともに世界的な通貨だった時代に、世界に先駆けて金本位制を導入し、贋金防止のために硬貨の側面の周囲にギザギザを彫り込む技術を確立している。彼は、超一流の物理学者であると同時に、微積分を発明するなど数学者としても超一流だったが、さらに、経済でも歴史に名を残すほど超一流の実務家だったのである。

ニュートンの力学理論の正しさは、ハレーによる彗星の出現周期の予測によって実証された。そのハレーは、彗星の軌道計算をしただけでなく、当時初めて得られた国勢調査の結果から年齢ごとの人口分布のデータを分析し、そこから、老後の生活を支えるための仕組みである年金制度を考案し、英国を社会福祉先進国にする貢献をした。また、年齢ごとの死亡率に基づいた生命保険制度も考案した。現在、年金制度や生命保険制度は、社会を安定させるための柱になっているが、常識に囚われずにデータに基づいて数理的に理屈を究めるという物理の考え方が、時代を超越したハレーの発想の源だったのだ。

このように物理学の誕生初期の歴史を知れば、物理学の視点から経済現象を研究するという経済物理学は、極めて自然な成り行きであるのがわかる。物理学は、まず、常識を捨てることから始まるのであるから、いったん経済学の既存の理論は忘れ、先入観に囚われないで、実験や観測とデータ解析により経験則を確立することが物理としての第一歩となる。
 

経済物理学の誕生

本書もまた、経済物理学をテーマにした本である。そこでここからは、この比較的新しい学問分野の成り立ちを、私自身の研究の歩みと共に振り返ってみたい。

1980 年代、当時の私自身の研究は、フラクタル現象に関する物理だった。フラクタルとは、拡大しても縮小しても同じように見える構造や現象の総称であり、身近な例としては、地形の凹凸、稲妻や雲の形状、ガラスが割れたときの破片の分布、樹木の枝の構造など枚挙にいとまがない。フラクタルの概念を創出したマンデルブロの『フラクタル幾何学』という本が、コンピュータグラフィックスの美しさも手伝って世界的なベストセラーとなり、アカデミックな世界にも大きな影響を及ぼしていた。それまで、構造を特徴づける次元という量は整数値しか想定されていなかったが、マンデルブロは複雑な構造の場合には、次元が非整数値をとり、しかも、至る所で微分が定義できない凹凸を持つと主張した。ニュートン以来、微分を最大の道具として様々な現象の解明をしてきた物理学にとって、盲点を突かれたような形で登場したフラクタルは、大きな衝撃だった。

私は、最先端の研究テーマとしてフラクタルを物理学的に理解する研究を進める中で、乱流、放電パターン、脆性破壊、河川地形、地震、エアロゾルなどに関して、なぜどのようにフラクタル構造が生じるのかについて自分なりに納得できる結果を得た。そして学位論文をまとめ、フラクタルの単行本も執筆し、ポスドクで在籍した京都大学を経て、神戸大学の地球科学科に助手として就職した。そのようなとき、87年に、フラクタルの元祖であるマンデルブロの所属するイェール大学に日本学術振興会の海外特別研究員として滞在する機会を得た。

米国に渡り、マンデルブロと直接話をする中で、彼がフラクタルという概念を閃いたのは、市場価格の変動データの解析をしていたときだったと知った。また、「フラクタルを通して広い分野の研究をされているが、自分の専門を既存の分野からひとつ選ぶとすると何を選びますか?」という私の質問に対し、マンデルブロが「経済学だ」と即答したことからも、経済現象の重要性を教えられた。それまでの自分は、物質の視点でしか見てこなかったので不安はあったが、こうした経験に後押しされ、フラクタルの源流とも言うべき市場変動の解析に取り組もうと決心した。

市場変動の研究を始めるにあたって、まず、市場のデータを解析しようと思ったが、当時はまだ精度の高いデータが整備されておらず、入手できなかった。自分は経済に関しては全くの素人だったので、何がわかっていて何がわかっていないかを知るために、経済の専門家と共同研究をする必要性を強く感じた。

知人がほとんどいないイェール大学ではあったが、幸い、日本人会などのつながりから、経済学科の浜田宏一教授と出会うことができた。市場価格変動をフラクタルの視点から研究したいという自分の研究の狙いを説明し、どういう文献を勉強すればよいかを尋ねたところ、「経済学ではゲーム理論的に考えるのが主流であるが、市場参加者が皆合理的な判断をすると想定すると、結果としては市場価格が一つの値に収束することになり、そもそも不安定に変動すること自体、うまく説明ができていない」ということだった(この指摘は本書でも何度か登場する)。それならば、文献を学ぶ必要はあまりなく、市場価格がランダムに見えるような変動をすること自体を問題として、それを説明するような研究ができると考えた。データがないなら実験をするしかない。だとすれば、ディーラーの行動をプログラムで記述し、コンピュータの中に仮想的な市場を作り、そこで数値実験をしたらよいのではないか。コンピュータモデルで現象を解析するのは、それまでの自分の研究スタイルだったので、この方針で市場を物理として研究できると期待が膨らんだ。

市場は物理法則で動く―経済学は物理学によってどう生まれ変わるのか?

作者:マーク・ブキャナン 翻訳:熊谷 玲美
出版社:白揚社
発売日:2015-08-02
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