『道程 オリヴァー・サックス自伝』 訳者あとがき by 大田 直子

早川書房2015年12月20日 印刷向け表示
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道程:オリヴァー・サックス自伝
作者:オリヴァー・ サックス 翻訳:大田 直子
出版社:早川書房
発売日:2015-12-18
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「オリヴァー・サックスの自伝をやらないか」というお話をいただいたとき、もちろん「ぜひぜひ」 と二つ返事でお受けした。サックスの著書をこれまで三作翻訳してきたこともあるが、ネット上で見ていた原書のカバー表紙に興味津々だったからでもある。

短髪のイケメンが革ジャンを着てさっそうとバイクにまたがっている。えっ、これがサックス先生? いったいどんな青春時代を過ごしていたのだろう? 医師としてのほかに、どんな顔を持っているのだろう?  内容に目を通すと、サックスがみずから語る生涯には、思いがけないエピソードが次々と出てきた。

まず冒頭からバイクの話だ。18歳のときに親の反対を押し切り、勝手に車を売って中古バイクを買った。その後、医師になってからも週末には白衣をレザースーツに着替えてツーリングを楽しんでいたという。バイクでアメリカ一周の旅までしていて、その途中、愛車が故障したときにはヒッチハイクでトラックドライバーの世界をかいま見ている。ちょっとしたロードムービーのようだ。バイクを嫌って挑発してくる車のドライバーに、パンチをお見舞いしたりカメラの一脚を振り回してみせたりする姿は、一見穏やかそうないまのサックスとは結びつきにくい。

1956年、新しい250ccのノートンと。(著者所蔵)

もうひとつ意外な趣味はウェイトリフティング。病院でただで食べられるダブルチーズバーガーとミルクシェークで「バルクアップ」し、当時のカリフォルニア新記録を打ち立てた。マッチョな脳神経科医を想像するのは難しいが、 本文に収録されている写真が何よりの証拠である。私生活に関しては同性愛のことも意外だった。いまとは時代もちがったので、母親に「憎むべきもの」と言われるなど苦悩も大きかったようだ。それでも片思いや失恋の痛み、相手を傷つけた後悔、軽い気持の遊び、真剣な充実した関係など、いくつかの恋愛体験について綴っている。

1956年、ロンドンのマッカビ・クラブでウェイトリフティングを始めたころ。(著者所蔵)

医師として歩んできた道にも意外な場面がたくさんあった。そもそも医学を志すかどうかでも迷ったという。医者一家だったので周囲は当然と思っていたが、本人としては「あてがわれた職業」という気持が強かった。イギリスから自由の国アメリカへ渡ったのは、しがらみや過去から逃れたいからでもあった。結局は医学の道を進むわけだが、当初は純粋な研究者を目指していた。けれども不器用ゆえに失敗続きで、薬物に慰めを求めるほど落ち込んだ。

そして教授から「きみは研究室の脅威になる」とまで言われ、やむなく臨床医に転向するのだが、実はそれが天職だったのだ。この仕事に生きがいを見いだせたからこそ、薬物依存から抜け出して自分とも向き合うことができるようになったと、 サックス自身も認めている。そして患者に対して誠実に接する医師として慕われるようになっていった。だが、その後はすべて順風満帆だったわけではない。患者に寄り添うあまりに上司とぶつかり、病院をクビになることもあった。それほど熱く、激しく、とかく「やりすぎて」しまう人なのだ。

2006年、マチュピチュで日記を書いているところ。©Kate Edgar

しかし特定のポジションに縛られずに、あちこちの病院や施設を「巡回」してさまざまな患者を診る立場は、彼のもうひとつの天職にとって好都合だったといえる。それは「書くこと」だ。学生時代から知識テストや実技は落第でも論文の成績は飛び抜けていたというくらい、サックスは書くことが 得意で好きだった。だからこそ、患者の診療記録も詳細な長文になり、それを下敷きにした本を何冊も出すことになったのだ。

書くことが好きすぎて、あふれ出てくる文章を切り捨てることができず、 本がなかなかまとまらない苦労さえあったようだ。脚注が本文の3倍の分量になるなんて、それは編集者も「激怒」するだろう。もちろん実際に刊行される本はスリム化されているのだが、それでもページの半分以上を細かい文字の脚注が占めている箇所がいくつも出てくると、翻訳者も思わずため息をつくのである。

梅雨入り前に始めた訳出作業も佳境に入り、夏の暑さが少しやわらいできたと感じたころ、「オリヴァー・サックス氏死去」の報を聞いた。末期癌であることはすでに知っていたので、ある程度覚悟はしていたが、本人が振り返った波乱に富んだ人生をたどっているさなかだったので、胸がきゅっと締めつけられる思いだった。

ああ、もうサックス先生は患者を診ることも、学生に教えることも、大好きな水泳やシュノーケリングをすることも、そして何より書きものをすることもできないのか。医学をテーマにしながら人間味にあふれる彼のエッセイを、私たちはもう読むことができないのか(ただし本書でも、2月に末期癌を告白した寄稿でも、ほぼ書きあげている本があることを本人はほのめかしている)。つい最近まで新しい著書が出ていたし、亡くなるわずか二週間前にもニューヨークタイムズにエッセイが掲載されていたからよけいに、その喪失感が大きいのかもしれない。

私事で恐縮だが、サックスの『音楽嗜好症』は私にとって翻訳者としての大きな節目となった本である。脳や知覚や意識について、さらには科学読み物の翻訳について、多くを学ばせてもらった。大勢の患者を救った医師オリヴァー・サックス。世界中の人々に感動を与えた作家オリヴァー・サックス。どちらももうこの世にいないと思うと、とてもさびしい。

でもいまごろ彼は、自分を医師の道に導いた最愛のご両親、精神を病んでいた兄のマイケル、イスラエルの外相を務めたいとこのアバ・エバン、脳と意識の問題について論じ合ったフランシス・クリック、博物学と科学史への愛情が通じ合っていたスティーヴン・ジェイ・グールド、自伝のタイトルにその詩の題名を借りるほど影響を受けた詩人トム・ガン、そのほか彼の人生に深くかかわり、先に逝った人たちと再会し、科学やら文学やらの話に花を咲かせているのではないか。そんなことを思いながら、生前最後の本となってしまった分厚い一冊を訳し終えたのである。サックス先生、ありがとうございました。  

2015年11月 大田 直子

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