『謎のアジア納豆 そして帰ってきた<日本納豆>』 ダイナミックな文化論を軽やかな足取りで 客員レビュー by 清水 克行

清水 克行2016年04月26日 印刷向け表示
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

高野 秀行の最新刊は、固定観念の外側を探検する。テーマはずばり、納豆とは何か? ともすればアカデミックに着地してもおかしくないテーマを、おなじみ高野流の足取りで核心へと迫っていく。このアプローチをアカデミック界の鬼才は、どのように評したのか? 昨夏『世界の辺境とハードボイルド室町時代』で魔球対決を繰り広げた清水 克行氏に、本書のレビューを寄稿いただきました。(HONZ編集部)

謎のアジア納豆: そして帰ってきた〈日本納豆〉
作者:高野 秀行
出版社:新潮社
発売日:2016-04-27
  • Amazon
  • honto
  • e-hon
  • 紀伊國屋書店
  • 丸善&ジュンク堂
  • HonyzClub

私自身もそうだが、東日本に生まれ育った者ならば、誰しも納豆については、大なり小なり一家言あるのではないだろうか。関西の知人から納豆はダメだという話を聞くたびに、心の中の優越感を隠し切れないし、たまに外国人で納豆が食べられるという人に出会うと、「なかなかやるじゃないか」と、急に親しみを覚えたりする。その根底には、あのニオイとネバリの良さが、そう簡単によそ者にわかってたまるか、という思いがある。納豆はクセがあるだけに、他の食べ物と違って、それを好む者同士の連帯感や自尊心をつねに複雑にくすぐるもののようだ。

ミャンマーの奥地でアヘン栽培に携わり、西南シルクロードの密林を象で縦断、ソマリアで氏族紛争や海賊の現場を取材するなどして数々の”レジェンド”を築いたノンフィクション作家・高野秀行の最新作は、なんと、その納豆が主題である。高野は、タイやミャンマーなどの山岳地帯で作られている<アジア納豆>の様々を精力的に取材し、こんどはそんな私たちの納豆に対する既成概念を打ち破ってくれた。 

多くの日本人にとっては、そもそも日本以外の土地で納豆が作られているという事実自体が十分に驚きだろうが、それ以上に本書で驚かされるのは、その製法・調理法の多様性だ。固形化して、使う量をそのつど砕いて料理に入れるミャンマー・シャン州の「せんべい納豆」、言われないと納豆が入っていると分からないネパールの「納豆カレー」、野菜と納豆だけで芳醇な味わいを実現させた元・首狩り族の「古納豆のスープ」などなど。<アジア納豆>は、煮る・炒める・粉末化する、じつに多様な姿をしている。それに比べれば、ナマ(?)で食べることしかしない日本は、「納豆後進国」だったということを、悔しいが認めねばなるまい。

さらに言えば、納豆といえばワラ、というのも、私たちの思い込みに過ぎなかったようだ。<アジア納豆>は、いずれもワラなど使わず、大豆をふつうの青々とした木の葉に包んで発酵させていたのだ。不審に思った高野は、帰国後、東京都の研究所まで巻き込んで、「夏休みの自由研究」感覚で様々な植物で納豆づくりに挑戦。ほとんどの植物の葉に納豆菌が常在しており、ワラは納豆づくりの必要条件ではないことを科学的に証明してしまう。高野は「納豆はどこか人を「童心」に戻らせるところがある」と自嘲するが、ここの「自由研究」のくだりは、そこまでやるか?!というマニアックなワルノリぶりがかなり可笑しい。

アジア各地の台所に分け入って<アジア納豆>の実態をルポした高野は、ついにはその知見をもとに秋田や岩手の山間地を訪れ、日本納豆の起源にまで迫る。室町時代から江戸時代まで、日本の古文献に現れる納豆は、いずれも「納豆汁」。つまり、意外にも日本では元々、納豆はおかずではなく、汁物のうま味調味料として使われていたのだ。そう考えると、納豆が現在、アジアの山岳地帯で作られ続けている理由もおのずと明らかになる。海から離れ、コンブやカツオなど魚介由来のうま味の調達が困難な地域にとっては、納豆こそがうま味の源にして、必要不可欠な調味料だったのだ。そこから高野は、中尾佐助博士の照葉樹林文化論をも凌駕する、ダイナミックな納豆文化圏論を打ち立てることになる。そこには、中華帝国(漢民族)の味噌・醤油文化圏や東南アジア海浜部の魚醤文化圏にも対抗しうる、堂々たるアジア山岳文化圏が立ち現れてくる。何を隠そう、わが国の納豆文化も、その広大な文化圏の一端を構成していたのだ。

日常の些細で取るに足らないもののなかにもナショナリズムやエスニシティは存在する。いや、日常の些細で取るに足らないもののなかにこそ、それらは濃厚に投影されるというべきかもしれない。納豆という、ごく日常的なもののなかにも、私たちは知らず知らずに偏狭な国家の枠組みや、つまらない自尊心を勝手に持ち込んでしまっているのかも知れない。本書は、日本の「国民食」として誰もが疑わない納豆に、<アジア納豆>という異文化を対置させることで、そんな私たちのアイデンティティに痛快な風穴を開けてくれる。

もっとも高野は、それを「ナショナリズム」や「エスニシティ」などという無粋な言葉では説明していない。「手前味噌」ならぬ「手前納豆」意識と呼んで、それを見事に笑いに変える。取材量の膨大さと洞察の深さで、本書はほとんど「研究書」と言ってもいい内容であるが、その取材と思考過程の叙述が「笑えて読める」エンターテイメントになっているという一点で、すでに研究者の書く「研究書」を大きく乗り越えていると言っていいだろう。

清水 克行 明治大学商学部教授。専門は日本中世史。1971年東京生まれ。大学の授業は毎年大講義室が400人超の受講生で満杯になる人気。NHK「タイムスクープハンター」など歴史番組の時代考証も担当。著書に『喧嘩両成敗の誕生』『大飢饉、室町社会を襲う! 』『日本神判史』『足利尊氏と関東』『耳鼻削ぎの日本史』などがある。

記事へのコメント コメントする »

会員登録いただくと、記事へのコメントを投稿できます。
Twitter、Facebookにも同時に投稿できます。

※ 2014年3月26日以前にHONZ会員へご登録いただいた方も、パスワード登録などがお済みでない方は会員登録(再登録)をお願いします。

コメントの投稿

コメントの書き込みは、会員登録ログインをされてからご利用ください。

» ユーザー名を途中で変更された方へ
 変更後のユーザー名を反映させたい場合は、再度、ログインをお願いします。

HONZ会員登録はこちら