『酒の科学 酵母の進化から二日酔いまで』 訳者あとがき

白揚社2016年08月07日 印刷向け表示
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酒の科学―酵母の進化から二日酔いまで
作者:アダム・ロジャース 翻訳:夏野徹也
出版社:白揚社
発売日:2016-08-05
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お酒をいただくときには五感をフル稼働して繊細な味覚を楽しみ、時には酒造工程に思いを馳せて薀蓄を披露するという人がいる一方で、そんなことにはまるで疎く、とにかく酔えばよいという人もいます。残念ながら訳者は後者に属します。そんな訳者でもいつもの一杯を丁寧に飲もうという気にさせてくれたのが本書です。

本書はAdam Rogers著『Proof: The Science of Booze』の邦訳です。著者は、微生物の生理作用と人類の叡智とが共同でつくり上げた「奇跡の飲み物」について、科学に基盤をおきながらも美酒の香りただよう世界へと読者を導いてくれます。発酵の微生物学から飲酒に伴う人体の生理学まで、また古代の酒造法から現代遺伝学まで、「アルコール飲料」に関する豊富な話題を縦横無尽に語ります。

人類は酵母が糖を発酵してアルコールをつくることを知らないまま酒を造っていました。まずはその時代にまでさかのぼって、酒造りの軌跡を考古学的に検証し、やがて発酵の秘密が科学者たちによって解き明かされる過程をたどります。人間がいかに酒好きで、どうにかして酒を造ろうと、もっと旨い酒にしようと奮闘してきた様子がうかがえ、人類と酒の出会いが必然だったと実感させられます。異なる酵母や糖からさまざまな種類の酒が造られているのもうなずけます。

このアルコール発酵は人がいなくても起こりますが、蒸留酒を造れるのは人類だけです。錬金術師の発明になるという蒸留法は今日まで絶え間なく改良が重ねられ、いわゆるスピリッツの数々を生み出しました。蒸留釜(スチル)のわずかな形状の違いが風味に影響することや、ウイスキー用のスチルが銅製でなければならないといったことは割と有名な話ですが、著者はジムビーム創業者の子孫が伝統あるバーボンを復活させようとする試みを描き、蒸留プロセスの奥深さを垣間見せてくれます。

さらに奥が深いのが、ウイスキーやブランデー、ワインなどの樽による熟成です。これは樽外からのわずかな空気の流入による酸化や樽外へのアルコールの蒸発(天使の分け前)に加え、樽材成分の作用によって酒の味、香り、色が変化する物理化学的作用ですが、詳細は謎だらけです。ただ、世界的なウイスキー人気の高まりにより、長期の熟成を経た優良な在庫が少なくなっており、メーカーのなかには熟成の謎に真剣に取り組んでいるところが出てきました。一万年におよぶ人類の酒造りへの執念を読んだ今、熟成期間の短縮はまちがいなく実現されると確信をもって言えます。

ここまでは酒が私たちの体内へ入るまでのお話ですが、後半では酒が体内に入ると何が起こるのかという、類書にはあまり見られない試みへと進みます。まず、私たちがアルコール飲料の味とにおいをどのように感じるかを解明するさまざまな説や実験が紹介されます。ソムリエの味覚も俎上に載せられます。私たちが酒を飲んだときに、脳や体にアルコールがどんな作用をするかということは、じつはほとんどわかっていないのだそうです。酔ったときの感じ方の原因も、中毒になるわけも。フィールド調査では、酔っぱらったときに現れる行動には社会的規範が強く影響することが示され、プラシーボを使った実験によると、(自分が酔っていると思い込む)暗示効果が行動を左右するといいます。つまり、「酔い」は神経学や生理学だけではなく社会学や人類学の対象でもあるのです。

最後に、あの苦しい二日酔いに筆を進めます。じつは本格的な二日酔いの研究が始まったのはここ10年かそこらの話で、原因物質も治療法についても明確な答えは得られていません。有望な兆しはあるものの、決定的と言える結果は今後の研究を待たなければならないようです。

蒸留所やブルワリー、樽メーカー、さまざまな研究機関を訪ね、職人の技や科学研究、歴史など、多種多様な話題を料理しながらも、著者は酒がいかに人間味あふれる飲み物であるかという点に必ず戻ってきます。酒は人類と不可分なもので、究極の文化行動の産物であり文明の根幹だとさえ言います。

本書の魅力の一つに博覧強記の著者が随所にはさむ挿話が挙げられますが、なかでも印象に残ったものは以下の二つです。まず、アメリカに渡った高峰譲吉が日本酒造りに用いられる麹由来の、デンプンを糖に分解する酵素を使ってウイスキーを造ったけれど、モルツ業界の妨害を受けて事業が頓挫した。しかしその酵素をタカジアスターゼの名のもとに消化薬として販売し、成功を収めたという痛快な物語です。いま一つは、純粋なウォッカは水とエタノール以外を含まないが、それでも製品によって風味に違いが生じるのは水とエタノールの間の水素結合の強さの違いによるのだという説です。

本書では触れられていませんが、微生物学的に見てとても印象深い日本の職人技を紹介したいと思います。現在の実験室では、不要な微生物の汚染を防ぐためにおもに高熱を利用した滅菌法が用いられます。しかし、日本酒の醸造では古くから独特の方法を使って雑菌の繁殖を抑制していました。酒米にはもともと酒造に不適な野生酵母(産膜酵母)などが付着しているので、これを制御する必要があります。まず蒸し米に麹と水を加えて仕込み、低温で混ぜ合わせると硝酸塩還元菌が働いて亜硝酸を生成します。亜硝酸は酵母の増殖を抑制します。このあと徐々に温度を上げると乳酸菌が活発化して乳酸を精製し、これと亜硝酸の作用で野生酵母は死滅します。酸性度が進むと硝酸塩還元菌は死んで亜硝酸も消えます。ここで酒造用酵母を加えると、発酵したアルコールによって乳酸菌も死滅するというわけです。

この生酛(きもと)という複雑で高度な技術が、発酵が微生物の作用であることを知らない、まして顕微鏡もなかった時代に開発されたことに驚嘆の念を禁じえません。まさに、著者が言うところの人類の賢さと酒造に対する情熱のなせる業でしょう。なお、現在では乳酸菌ではなく醸造用乳酸を添加する方法を取っているところが大半だそうです。

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