『ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち』 ドリームのないアメリカ

村上 浩2017年03月22日 印刷向け表示
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ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち
作者:J.D.ヴァンス 翻訳:関根 光宏
出版社:光文社
発売日:2017-03-15
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2016年6月に出版された原書はアメリカでベストセラーとなり、世界中で高い評価を受けた。英エコノミストは「2016年に出版された本の中で、アメリカを知るために最も重要な一冊」と評している。1984年生まれの若き白人のアメリカ人である著者J.D.ヴァンス自身が述べるように、彼はイェール大学ロースクールを卒業し経済的成功を収めてはいるものの、「人生で何か偉業成し遂げたわけではない」。そんなヴァンスの人生を綴った本書が大きな話題を呼んだのは、彼の故郷に暮らすアメリカの白人たちの姿がトランプ支持者のそれとピタリと重なったから。トランプ現象を支える人々の実像を追い求めて、多くの人がこの本を手に取ったのだ。アメリカの繁栄から取り残された白人たちの現実は、多くのアメリカ人たちにとっても、これまで知ることのなかった驚くべきものだった。

ケンタッキー州北東部出身であるヴァンスの家族の祖先は、アイルランド島北東部から18世紀にアメリカに移住してきたスコッツ=アイリッシュ。彼の家族は自らのことを、田舎者を意味する「ヒルビリー」と呼ぶ。住む家を転々と変えざるをえなかったヴァンスの故郷の1つであるケンタッキー州ジャクソンでは住民の3分の1が貧困状態にあり、離婚や薬物依存症も珍しくない。アメリカで苦境にある人々と言えば黒人やラテン系移民を思い浮かべるが、社会調査によるとアメリカで最も厭世的な社会集団は白人労働者なのだという。極度の貧困に苦しむラテン系移民や今なお残る差別に苦しむ黒人よりも、白人労働者階層は明日への希望を失っている。彼らにとって、つらい現実を乗り越えるための活力となるはずのアメリカン・ドリームは、文字通り夢物語なのだ。

学術書ではない本書が取り扱うのは、製造業海外移転のメカニズムや人種の違いが格差に与える影響の分析ではない。著者は、社会階層や家族が貧困のただ中にいる人々にどのような影響を与えているかを、地を這う人々の目線で、これでもかというほどリアルに教えてくれる。

本書で語られるディテールは人の心を動かす力を持っている。この本を読んだ誰もが、自分が置かれていた境遇、周りにいた家族や友人、そして自分がこれまでに下してきた決断について顧みずにはいられなくなるはずだ。トランプ旋風がなければ、この本はベストセラーにはならなかったかもしれない。しかし、逆境の中でも人生を投げ出さなかったヴァンスの姿勢、ヴァンス自身がCrazy Familyと呼ぶ家族の特異さと愛おしさ、白人労働者を取り巻く絶望のどれもが真に迫る強度を持っていたからこそ、この本は大きな反響を呼んだのだ。

「一方の親は、私が生まれてからずっと薬物依存症と闘っている。私を育ててくれた祖父母はどちらも高校も卒業しておらず、カレッジを卒業した親類もほとんどいない」というヴァンスの家族を含むヒルビリーたちは、独特な価値観に基づいて生きている。ヴァンスの祖母は12歳のときに、家族の大事な資産である牛を盗もうとしていた泥棒をライフルで半殺しにしたと噂されていた。親類の中で最も感じの良かったおじさんでさえ、母親を侮辱する言葉を吐いた自社の社員を殴り倒して気絶させ、電動のこぎりで腹を切り裂いたことがある。ヒルビリーの人々にとって、家族を守ることはいつも善きことであり、ナイフや銃の使用ですら正義の執行に必要な手段に過ぎない。

ヒルビリーの文化は矛盾に満ちている。家族を大事にすると言いながら、子供を見捨て、家族を裏切る者が多くいる。ヴァンスは12歳のとき実の母に殺されかけ、母を被告とした裁判を行っている。ヒルビリーは誰もが一生懸命に働くことの大切さを説くにも関わらず、30%の若者が週に20時間以下しか働いていない地区もある。しかも、その若者たちは誰一人として自分のことを怠け者とは思っていない。著者も、せっかく手に入れた仕事を無断欠勤などで失う人々を多く目撃している。この独特な文化がどれほど根深く人々を蝕んでいるか、ヴァンスの過酷すぎる実体験で追体験することができる。

悲惨な学生生活を送ったヴァンスであるが、自身を含めた貧しい子どもが学校で苦労する原因として、公的機関ばかりがやり玉にあげられる現状には違和感を覚えるという。学校などの公的機関はもちろん重要であるが、貧しい子どもたちが最も大きな困難を経験し、その行く末を阻んでいたのは崩壊してしまった家庭生活だった。怠惰、暴力、ドラッグで家族という最後のセーフティネットが破壊され、歪んだ価値観に生きるヒルビリーの抱える問題は、解決することはもちろん、正確に理解することすら困難である。

どんな本も、どんな専門家も、どんな専門分野も、それだけでは現代アメリカのヒルビリーが抱える問題を、完全には説明できない(中略)私たちの哀歌は、社会学的なものである。それはまちがいない。ただし同時に、心理学やコミュニティや文化や信仰の問題でもあるのだ。

祖母との二人暮らしで平穏を手に入れ、高校卒業後に海兵隊で多くを学んだヴァンスは、後にイェール大学ロースクールに進むという成功を掴む。大学に行くことすら珍しいヒルビリーでは、望外の成果だ。社会階層の最底辺から頂上へ移動した彼だからこそ、見えるものがある。仕事の面接ではスーツを着なければならないことや金融というものが実際に人が働く産業であることすら知らなかったヴァンスと同様に、社会の上澄みだけで生きてきた人は貧困のリアリティを知らない。どれだけ精緻に理論を積み上げても、想像力を働かせようとも、彼らの声に耳を傾けない限りは真の姿は見えてこない。

大学時代のヴァンスがオハイオ州議員のもとで働いていたとき、給料を担保に高利で金を貸すペイデイローンを廃止する法案が審議されていた。多くの議員にとってペイデイローンは弱者からなけなしのお金をはぎ取る人食いザメのような存在に映ったのだろう。ところが、クレジットカードすら作ることのできないヴァンスを含む貧困層は、ペイデイローンの存在なしには今、この瞬間を生き抜くことができない経験を幾度もしているという。

権力者は、自分が助けようとしている人たち(たとえば私)の現状を知らないままに、ことを進めるのだ。

ヴァンスの故郷の人々は、自分の選択が人生になんの影響も与えないと思いこみ、「自分ではどうしようもない」という感覚が拭いがたくつきまとっているという。簡単に仕事を投げ出し、自分たちの境遇の責任を移民や黒人に押し付け、全てを諦めている彼らの状況を変える方法などあるだろうか、その価値観を揺さぶることのできる言葉など存在するだろうか。それでも、この問題を解決するためには、自分たちで向き合うしかないのだ。ヴァンスはこう語りかける。

こうした問題は、政府によってつくり出されたものでもなければ、企業や誰かによってつくり出されたものでもない。私たち自身がつくり出したのだ。それを解決できるのは、自分たち以外にはいない。(中略)事態を改善するために自分たちに何ができるのか、自問自答することからすべてが始まる。

繁栄から取り残された人々の存在は、遠いアメリカだけの話だけではない。製造業の海外移転や少子高齢化によって、日本でも地方の衰退は加速している。子どもの貧困も課題となっている。地方から東京へ出てきた人なら誰でも、衰退する地方にまとわりつく重い空気、そこから抜け出したことにたいする複雑な思い、都市で暮らす人々と接して初めて感じる大きなギャップを、ヴァンスほどではなくとも経験しているはずだ。 ヒルビリーが日本の未来の姿とならないようにするために、自分たちに何ができるだろうか。

 

年収は「住むところ」で決まる  雇用とイノベーションの都市経済学
作者:エンリコ・モレッティ 翻訳:池村千秋
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住む場所、都市によってどれほど人々の暮らしは異なるのか、特定の都市でイノベーションが生まれ続けるのはなぜなのか、経済学者が多くのデータで解き明かす。レビューはこちら

階級「断絶」社会アメリカ: 新上流と新下流の出現
作者:チャールズ・マレー 翻訳:橘明美
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『ヒルビリー・エレジー』とは対象的に、こちらはマクロなデータでアメリカがどれほど断絶しているかを明らかにしていく。レビューはこちら

ルポ トランプ王国――もう一つのアメリカを行く (岩波新書)
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