『Mr.トルネード 藤田哲也 世界の空を救った男』嵐のような天才気象学者の生涯を追う

西野 智紀2017年06月29日 印刷向け表示
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Mr.トルネード 藤田哲也 世界の空を救った男
作者:佐々木 健一
出版社:文藝春秋
発売日:2017-06-19
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とにかく私の人生は面白い。安定とは無縁だった

気象学者、藤田・テッド(セオドア)・哲也は、自身の歩みを回顧して、そう語った。本書は、彼の生涯をつぶさに書きとめた評伝であるが、この引用の言葉どおり、とんでもなく面白い。なにせ、気象学者ながら、ひじょうに多彩な顔を持ち、絶えず変化する気象現象のように数奇な道のりをたどってきたのだから。

最初に略歴を書いておこう。1920年、福岡県に生まれた藤田は、明治専門学校(現在の九州工業大学)を卒業後、助教授に就任。1953年に渡米し、以後シカゴ大学にて40年以上にわたり局地的な気象現象について研究を重ねる。その後、竜巻の強さを示す階級表「F(フジタ)スケール」の提唱や、飛行機の墜落事故を引き起こす積乱雲からの下降噴流(ダウンバースト)の研究といった業績により、気象学史にその名を残す。1998年に他界。

このように輝かしい経歴を持ち、さらにはフジタテツヤという日本人に馴染み深い名前であるにもかかわらず、日本ではほとんど知られていない。

NHKのディレクターである著者も、Fスケールの考案者としての藤田博士は知っていたが、ダウンバースト研究については当初ほとんど知らなかった。しかし、書店で何気なく手に取った『嵐の正体にせまった科学者たち 気象予報が現代のかたちになるまで』(ジョン・D・コックス著、堤之智訳、丸善出版)という本にて、藤田がダウンバーストを見抜いたことが強調されている点に惹かれ、アメリカ全土で取材を行い、彼の人生を追いかけ始めた。その結果、略歴から零れ落ちた博士の魅力が次々と判明したのである。

まず驚くのは、渡米前、明治専門学校にて藤田は「物理学」の助教授として物理を教えていたことだ。気象学は独学で始めたもので、次第に本業より傾倒していき、福岡管区の気象台に独自のデータを見せに行くこともあった。気象屋の常識とは全く違う観点からの解析に気象台のスタッフたちは驚き、特別待遇を受けるようになる。

運命を変える日は突然やってくる。1947年8月、藤田は福岡と佐賀の県境にある脊振山山頂の観測所で、上昇気流からなるはずの雷雲からの下降気流を記録。嬉々としてこの発見をまとめ、中央気象台(気象庁の前身)が発行する論文集に発表する。

だが、雷雲からの下降気流は、日本では既知の事実で、特に話題にもならなかった。しかし積極的な藤田は、観測所の隣にあったアメリカ軍のレーダー基地のゴミ箱でたまたま見つけた論文を頼りに、アメリカ気象学会会長を務めるシカゴ大学気象学部主任教授バイヤースのもとへ自分の研究論文を送りつける。日本の無名研究者が世界的権威に「これ読んでください」と手紙を出したわけだから、大胆にもほどがある。

当然のごとく、全く相手にされず――と思いきや、二カ月後、バイヤースから、藤田の論文を高く評価する返信が届く。そればかりか、何度かの往復書簡を経て、「研究助手として今すぐこっちに来てくれ」という招待状まで送られてきたのである。大学院に行っておらず、博士ですらなかった藤田は、パトロンの力を借りて急いで博士号を取得し、アメリカへと飛ぶ。彼の独創的な研究はここでも驚きをもって受け入れられ、脚光を浴びることとなる。

さて、ここからは藤田のそのユニークさを具体的に見ていこう。

藤田が竜巻大国アメリカで竜巻研究の第一人者となり得た要因はいくつかあるが、一つには、徹底した実証主義であったことが挙げられる。とにもかくにもまず被害現場に降り立ち、痕跡を撮影・観察し、膨大なデータを集積して分析する。「気象学のシャーロック・ホームズ」というあだ名は言い得て妙である。

加えて、その推理を表現する能力にも長けていた。絵図を描くのが大得意だったのである。六色のペンを駆使してカラフルに図を作成し、自然現象を明快に提示して人々を納得させる。藤田にはいつしか「気象界のウォルト・ディズニー」なんて異名もつく。

こうした能力は若い頃から発揮されていた。実は藤田は原爆投下間もない長崎の地にて調査を行ったことがあり、その時も現場の被害状況から「爆風地図」を作り、爆心の位置を高い精度で特定していた。調査・研究は彼の天職であったのだ。 

また、エンターテイナーとして、自己演出にも熱心だった。藤田の英語は日本訛りがきつく、「フジタ語」などと呼ばれ、おまけにカメラ・メガネ・七三分けという調査スタイルがメディア受けし、藤田もそうして注目を集めることを喜んだ。意図的にパフォーマンスを行っていた面もあったという。マスコミがつけた愛称「Mr.トルネード」もお気に入りだった。

無論、このような藤田の自己流の研究スタンスを煙たがる学者もいた。悪いことに、藤田は批判をひどく嫌い、論文を査読させず、自主出版として好き勝手に発表していた。なおかつ、完璧主義者でもあった藤田は、時として周囲にも自分と同じような仕事量を求め、トラブルの種となっていた。

かくして、紆余曲折ありつつ、アメリカ国籍の取得や、「子竜巻」の発見、Fスケールの提唱を経て、1975年、イースタン航空から、切迫した依頼を受ける。半年前、ジョン・F・ケネディ国際空港で発生し、112名もの命が失われた66便墜落事故の原因究明をしてほしい、と。

66便は高性能の機体で、パイロットもベテラン。事故直前、管制塔とのやり取りで、風の急変があったことはわかったが、墜落を予感させるものではなかった。なにより、上空に積乱雲はあったものの、他の便は何事もなく着陸していた……。雷雲、強風、そして原爆。藤田の頭に、ひらめきがあった。雷雲には、短時間で局地的に発生する、爆発のような下降噴流が存在する!

それから10年以上に及び、藤田はこのダウンバースト現象をめぐり、激しい論争と、研究者として生きるか死ぬかの観測計画の最中に置かれた。結果から言えば、藤田はこの現象を解明し、ドップラー効果による周波数の変化を観測するレーダーを使用することによって予測可能であることを立証したが、この間の艱難辛苦が筆舌に尽くしがたいものであったことは想像に難くない。

革新的で、研究が道楽の、嵐のような男。関係者が口を揃えて「天才」と呼び、本書を読み終えても、確固たる人物評がつけにくいほど多才な科学者。しかし、最期まで研究一筋ではあったけれど、彼の脳裏にはいつも、原爆の惨禍や、運命的な出会いによる経験の数々があった。そうした、ちらりと見えるヒューマニズムが、とても興味深く、愛おしい。

彼はなぜここまで嵐に魅せられたのか。この問いに対する藤田の答えを引用して、本稿を締めくくりたい。

いつも違いがあるからです。すべての嵐が同じではないんです。人間と一緒です。調査に出るたび違うものに出会います。それが、私の原動力なのです。毎回、違う場所に行き、違う竜巻に出会い、違う発見をするのです

 

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