『ブレグジット秘録』 心地よい嘘と不快な現実の争い

村上 浩2017年10月02日 印刷向け表示
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ブレグジット秘録 英国がEU離脱という「悪魔」を解き放つまで
作者:クレイグ・オリヴァー 翻訳:江口 泰子
出版社:光文社
発売日:2017-09-15
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2016年6月23日、イギリスの国民投票の行く末を世界中が固唾を飲んで見守っていた。英国のEU離脱(ブレグジット)というまさかの結末は、世界中に大きな衝撃と混乱をもたらした。なぜ、英国民は多くの専門家が反対するブレグジットを選択したのか?そもそも、国民投票などする必要があったのか?EU離脱派がアピールし続けた、「EUを離脱すれば、毎週3億5000万ポンドの分担金を、国民保険サービスにまわせるという嘘」はなぜ訂正されることなく広まってしまったのか?外から見るブレグジットにはあまりにも謎が多い。

この本は、ブレグジットの真実を、時のデイヴィッド・キャメロン政権内部の視点から克明に描き出すドキュメントであり、ブレグジットに関する多くの疑問に答えを与えてくれる。著者のクレイグ・オリヴァーは、キャメロン政権の首相付き政務広報官、後にEU残留キャンペーン「ブリテン・ストロンガー・イン・ヨーロッパ」の広報責任者として残留派の中心的役割を果たしていた。残留派が国民に何を訴えようとしたかを語る上で、クレイグ以上の適任者はいないだろう。もちろんクレイグはブレグジットを政権内部から当事者として見つめているので、彼の述べる事実があらゆる角度からみた真実というわけではない。在英ジャーナリスト・小林恭子による本書の解説でも、「英国内での本書の評価は真っ二つに分かれた」とされており、残留派からは好意的な、離脱派からは否定的な意見が寄せられているという。

著者は2016年1月から国民投票までの6ヶ月間を、過剰とも言えるほどのディテールとともに描き出している。誰がどの会議で何と発言したか、首相がいつ誰に電話をかけたかという細かな事実の積み上げが、投票に向けて政権内部ではどのような議論がされたのか、政権とメディアはどのように関係しているのか、そして、彼らはなぜ敗れたのかの全容を少しずつ明らかにしていく。650頁弱というボリュームだが、次々と信じられないような事件や難題が降ってかかるので、退屈さを感じる暇はない。ページをめくるたびに、自分がこの泥沼の残留派キャンペーンの当事者になったのかと錯覚するほどの臨場感を本書は与えてくれる。また、実に丁寧に付された脚注が本書の理解を大きく助けてくれる。各メディアが残留派、離脱派どちらの立場だったか、英国人独特のシニカルな物言いの裏にはどのような意図があるのか、脚注もあわせて読み込むことで英国の輪郭がよりはっきりとしてくるはずだ。

クレイグは、この国民投票が不可避であったのだという説明から本書をスタートさせる。このタイミングで国民投票をすべきでなかったという者は「政治世界の現実をよくわかっていない」のだという。なぜなら、2015年総選挙でのキャメロン率いる保守党のマニフェストには国民投票の実施が掲げられており、EU懐疑派議員、右派メディアに加え有権者の過半数が国民投票を望んでいたからだ。国民投票を避ければキャメロンは首相の座を追われ、別の誰かが国民投票を実施していたはずである。ブレグジットの結末を変えるためには、思ったよりも長く、時計の針を巻き戻す必要があるようだ。

政権内、政党間の権力争い、EUのあるべき姿など、あらゆる視点から読むことのできる本書であるが、特筆すべきは政権とメディアの関係性がありのままに描き出されていることだ。メディア対応の責任者であるクレイグも、BBCなどで経験を積んだメディア業界出身である。我々が想像する以上に政権とメディアは熾烈な争いを行っている。残留派は世論調査をもとに、緻密に語りかけるべきターゲット層を抽出し、どのメディアでどのようなメッセージを出すかという戦略を描き出す。そして、クレイグは自らあらゆるメディアのトップに働きかける。もちろん、メディアも政権の言いなりでなはい。むしろ、クレイグは自分たちの戦略通りに動かすことのできないメディアに苛立ちを募らせていくこととなる。特に、英国で絶大な影響力を誇るBBCはそのニュースが不正確で、しばしば”間違っていた”と指摘する。トランプ大統領が誕生した大統領選挙でも話題になった、フェイクニュースとどう向き合うべきか、メディアの両論併記がどうあるべきかにも、1つの方向性を示している。

著者率いる残留派キャンペーンは、ターゲットとすべき浮動層(強固な残留派・離脱派はどのようなメッセージを発してもその態度は変化しない)には「感情的には離脱支持だが、理性的には残留支持の層」と「決めかねている層」がいると分析していた。この2つの層はEUにシニカルな意見を持っているので、EUの素晴らしさをいくら訴えても、その声は届かない。そのため、彼らに残された道はEU離脱による中長期的なデメリットを説くことが中心となっていく。一方の離脱派は、移民がもたらした目の前にある不快や不便にフォーカスをあて、EUを離脱すれば毎週3億5000万ポンドが英国に戻ってくるという虚実とともに訴えていった。

SNSの発達によって、より過激な映像、より刺激的な言葉が、より大きな力を持つようになった。情報の真実性は、その拡散能力とは関係ない。刺激的なフェイクニュースがより多くの人の脳裏に記憶され、退屈な真実は専門家とインテリの中でだけ失速していく。ブレグジット、トランプ大統領誕生は驚きとともに世界に伝えられたが、今後はこのような驚きが常態化していくのだろうか。ブレグジットが英国にどのような影響を与えるかが明らかになるのは、まだまだ先のことだ。そのとき、世界はブレグジットをどのように振り返るだろうか。フェイクニュースに世界が敗北した契機とみなされるだろうか。本書がブレグジットの真実に迫るための一級品の資料であることは間違いない。

チャヴ 弱者を敵視する社会
作者:オーウェン・ジョーンズ 翻訳:依田卓巳
出版社:海と月社
発売日:2017-07-20
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階級化の進んだイギリス社会で溜まりに溜まった不満がブレグジットをもたらしたのかもしれない。仲野徹のレビューはこちら。

ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち
作者:J.D.ヴァンス 翻訳:関根 光宏
出版社:光文社
発売日:2017-03-15
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アメリカでまさかのトランプ大統領誕生をもたらした背景に存在する、取り残された白人たちのあまりにリアルな物語。レビューはこちら

情報参謀 (講談社現代新書)
作者:小口 日出彦
出版社:講談社
発売日:2016-07-20
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日本における政治の情報戦略の最前線を描き出す一冊。峰尾健一によるレビューはこちら

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ノンフィクションはこれを読め!  2014 - HONZが選んだ100冊
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出版社:中央公論新社
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