『こわいもの知らずの病理学講義』 病は理から、理は言葉から

2017年10月14日 印刷向け表示
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こわいもの知らずの病理学講義

作者:仲野徹
出版社:晶文社
発売日:2017-09-19
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「十分に発達した科学は、魔法と見分けがつかない」とはSF作家アーサー・C・クラークの言葉だが、現代社会は魔法としか思えない科学であふれている。急速に発達し続ける科学は生活をより便利なものにしてきたが、深化した科学の中身はより理解が困難になっている。生活必需品となったスマートフォンを例にとってみると、その魔法のような機能の全てを科学的に説明できる人などほとんどいないはずだ。

進化を続けているのはIT関連技術だけではない。分子生物学の発展により、20世紀後半から生命科学は爆発的に進歩しており、新たな薬や治療法がニュースの紙面を飾らない日はない。著名人が実践した先端医療は大きな話題を集め、多くのフォロワーを生む。気を付けなければならないのは、世間をにぎわせる医学情報には誤りが多く、時には有害であるということ。医学を魔法のままにしておくことは、ときに生死に関わりうる。DeNAが運営していた医療情報キュレーションサイトWELQが問題になったようにインターネット上にも誤情報が蔓延っており、「新聞や週刊誌で病気の記事を読むときでさえ、明らかに書いた人がきちんと病気を理解しておらず、何を書いているんだかと思う」ことが多いと著者はいう。

急速に発展し続け、多岐にわたる現代医学の全てを医師ではない私たちが理解することは到底不可能だ。それでも、「いろいろな病気がどのようにできてしまうのか」という病気の成り立ちを理解しておけば、情報の洪水に惑わされないようになる。この本は、病気の原因を調べる「病理学」を分かりやすく解説することで、病気に関する原理原則を教えてくれるのだ。

病のことを知るための第一歩は、何がどのように作用して病が発生するかという理(ことわり)を理解することだ。著者が繰り返し「医学で使われる論理はきわめてシンプル」と述べているように、順を追って読んでいけば、病の理が魔法ではなく科学として実感できるはずだ。その理解のために、高度な数学や複雑な化学式は必要ない。

しっかりした知識が身につくとはいっても、この本は教科書のように堅苦しいものではない。本書の帯に「ボケとツッコミで学ぶ病気のしくみ」とあるように、医学にまつわるトリビアや著者のオモロイ体験談が髄所に盛り込まれ、講義内容はたびたび脱線する。『こわいもの知らずの病理学講義』よりも、『こわいもの知らずの愉快な病理学講談』という書名のほうがしっくりくる。

本書は、医学知識を深めてより健康な生活を送ろうと功利的に読むこともできるが、身体や病気の仕組みが段階的に理解できる知的な喜びを感じながら、著者の小話に爆笑するエンターテインメント作品として楽しむことをおススメする。なにしろ、本書の読了後に私の記憶に最も鮮明に残っていたのは、著者の不自由な毛髪にまつわるエピソードなのだ。この毛生え薬に関するエピソードは、人間はどんなことからでも学びを得ることができるのだということ、どんな困難にも強く立ち向かう勇気が重要なのだということを、笑いとともに教えてくれる。

医学の論理が単純であるとはいっても、その全体像を把握することは容易でない。その難しさの理由は、医学には日常生活では聞くことの少ない、ややこしい言葉が多用されるところにある。そのため、本書では重要な言葉については先ず広辞苑が引かれ、次いで医学的に正確でかつ分かりやすい解説が著者自身の言葉で行われる。例えば以下に引用する、「がんが成立する要因」を解説した文章も専門用語だらけで難しいと感じるだろう。しかし、この講義を最初からじっくりと読み進めていれば、それぞれの言葉が何を意味し、どのように関係しあっているかをしっかりと理解できるのである。

悪性腫瘍が成立するには、シグナルの自給自足、成長抑制シグナルに対する不応性、アポトーシスの回避、無限の細胞複製能、血管新生、浸潤能と転移能という六つの要因が重要であることが知られています。

本書の講義は人体の最小構成単位ともいえる細胞から始まる。細胞とは何であるか、どのように機能しているかをしっかりと理解しておくことが本書を読み通すための鍵となる。細胞が集まることで特定の機能を果たすことができる組織となり、組織が集まって心臓や肝臓などの臓器となるように、細胞が全ての議論の出発点となるからだ。足し算引き算の理解が覚束なければ掛け算割り算へと進むことは難しいように、細胞の動きをきっちり抑えておかなければこの後の議論の輪郭がぼやけてしまう。講義が進むほどにあなたの知識は増し、より高度な内容が少しずつ理解できるようになっていく。

講義前半で細胞と血液のことを学ぶと、講義後半ではいよいよ「病の皇帝」である「がん」が語られる。親族や友人を幅広く見渡してみれば、がんとは無関係だと言える人はいないはずだ。多くの人の関心事である分、がんにまつわる誤った情報は非常に多く、メディアで定説のように語られることすらある。講義後半までしっかり読み進めれば、「がんもどき」理論が“理論”と呼べるものではなく、「アホな説」であることが良く分かる。笑いながら賢くなれる、一石二鳥の一冊である。

がん‐4000年の歴史‐ 上 (ハヤカワ文庫NF)

作者:シッダールタ ムカジー 翻訳:田中 文
出版社:早川書房
発売日:2016-06-23
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