『宿命 警察庁長官狙撃事件 捜査第一課元刑事の23年』「真犯人」はなぜ封印されたのか 

首藤 淳哉2018年04月24日 印刷向け表示
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宿命 警察庁長官狙撃事件 捜査第一課元刑事の23年
作者:原 雄一
出版社:講談社
発売日:2018-03-28
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あの日、あなたはどこで何をしていただろうか−−。1995年(平成7年)3月20日。警察担当の記者だったぼくは警視庁にいた。

その朝の記憶は、「霞ヶ関駅構内で異臭事件発生」との一報を聞いて、駅に向かって全力で走るところから始まる。いま思えば軽率極まりないが、途中で通風口にひざまずいて臭いを確認したことを覚えている。やがて地下鉄の入口が点在する交差点が近づくにつれ、とんでもないことが起きたのだと知った。サリンが原因物質であることを警察が正式に発表したのは、その日の11時だったと思う。サリンと口にした時の寺尾正大捜査一課長の憤怒の表情は、いまでもありありと思い出すことができる。

それからの毎日は、まるで異常な時空の中に放り込まれてしまったかのようだった。オウム真理教の教団施設を張っていると、突然男が建物に向けて発砲したり、マイクを向けようとした教団幹部の腹に何者かが刃物を突き刺したりした。乾いた発砲音も、みるみる血に染まっていく衣服も、日常とはかけ離れたものだ。これを異常と言わずしてなんと言おう。

そんな状況下にあっても、どこか感覚が麻痺したようになっていたのは、教団の不気味さがはるかにそれを凌駕していたからかもしれない。

だが肝心の教団内部の詳しい状況はなかなか知ることはできなかった。逃げてきた出家信者がいるというので会ってみると、おそろしく表情の暗い男がやってきた。男は「富士清流精舎(教団施設)にいた」と言ったきり、何を訊いても押し黙ったままだった。オウムとの関係が囁かれた暴力団の周辺を嗅ぎ回ったり、何か手がかりはないかと夜中に教団施設のゴミ捨て場を漁ったりしたこともある。取材は空振りばかりだった。

所詮、事件の周辺で右往左往していただけのヘボ記者に過ぎなかったわけだが、それでもこんなふうに当時の記憶が一挙に甦ってきたのは、『宿命 警察庁長官狙撃事件捜査第一課元刑事の23年』を読んだからだ。平成の終わりを目前にした今、本書が世に出た意義はとても大きい。なぜなら本書によって平成最大の謎のひとつがようやく解き明かされたからだ。

地下鉄サリン事件から10日後の3月30日。國松孝次警察庁長官が、荒川区南千住の自宅マンションから出勤するため、通用口から公用車に向かっていたところを何者かに狙撃された。狙撃手は約21メートル離れたところから4発の銃弾を放ち、うち3発を精確に命中させ逃走。背後から撃たれた長官は瀕死の重傷を負った。

現場は隅田川沿いに建つ高層マンション群だ。敷地内に7棟のマンションが建ち並び、ちょっとした街のようになっていた。長官が撃たれた棟の目の前は遊歩道で、開放的な空間が広がっている。警察組織の頂点に君臨するVIPの私邸としては、意外なほど開けっぴろげだと感じたのを覚えている。

開けた空間であるがゆえに逃走も容易だったのだろう。犯人の行方は杳として知れなかった。その一方で、現場からはいくつかの重要な手がかりが見つかっていた。遺留品として北朝鮮の軍のバッジと韓国の10ウォン貨、そしてなによりも有力な証拠とされたのは銃弾だ。アメリカのフェデラル・カートリッジ社製のホローポイントと呼ばれる特殊な弾頭の銃弾である。

著者は1992年に清瀬市の派出所で発生した警察官殺害事件(未解決のまま07年に公訴時効を迎えた)の捜査に関わったのをきっかけに捜査一課に配属され、その後一連のオウム事件や八王子スーパー強盗殺人事件といった数々の凶悪事件や重要未解決事件の捜査に携わった。中でも長官狙撃事件は、2016年に警察を勇退した後も、執念の調査を続けたほど深く関わることになった。まさにこの事件について語るのにふさわしい第一級の歴史の証人である。

長官狙撃事件がその後どういう経過を辿ることになったか、ごく簡単に振り返っておこう。1997年、日本テレビが衝撃的な映像をオンエアした。オウムの信者だった警視庁の元巡査長が「私が撃った」と告白する内容である。元巡査長はすでにその前年に公安部の聴取を受けており、拳銃を捨てたとの供述に基づいて神田川の搜索も行われていたが、供述の信憑性に疑問があり、検察は立件を見送った。

次に長官狙撃事件の犯人を報じたのは新潮社である。公安部がオウム犯行説に執着する中、刑事部が独自に真犯人を割り出していたというのだ。この驚愕の内容をまとめた『警察庁長官を撃った男』が出版されたのは2010年である。

その人物の名は中村泰(ひろし)という。1930年(昭和5年)生まれで事件当時は65歳である。中村は2002年に名古屋で現金輸送車を襲撃して逮捕されていたが、いくつかの点で長官狙撃事件の容疑者の条件に該当することがわかったのだ。

結果的にこの「中村犯行説」は正しかった。ただ、新潮社が既に報じていたとしても、『宿命』の記述の迫力には及ばない。なにしろ著者は実際に中村を取り調べた当事者なのだ。頭脳明晰なうえ、複雑な内面を持ったこの老スナイパーとの攻防は、ぜひ本書をお読みいただきたい。個人的には「そうだったのか!」と疑問が氷解するくだりがページをめくるたびにあって、時が経つのを忘れて読書に没入した。

中村の供述は、動機といい、容疑者しか知り得ない「秘密の暴露」といい、いくつもの点で長官狙撃事件の真犯人であることを示唆していた。著者はそれらすべての裏付けを取り、共犯者たちの素性を突き止めることにも成功している。だが結局、中村の立件は見送られ、事件は2010年に公訴時効を迎えてしまった。

なぜ中村は真犯人と認められなかったか。それは公安出身のトップがオウム犯行説を熱心に唱えていたからだ。部下たちも中村はクロだという心証を持っていたにもかかわらずトップの見解にひきずられた。本書の記述は抑制がきいていて特定の人物を指弾するような箇所はないが、抑え気味だからこそ、かえって著者の静かな怒りと無念さが伝わってくる(この時、公安で何が起きていたかを知りたい方は、竹内明氏の『完全秘匿 警察庁長官狙撃事件』を読むことをおすすめする)。

著者が警視総監に中村に関する捜査状況を報告する場面にさしかかった時は、思わず本を閉じ、しばし瞑目してしまった。この国ではいつも現場は優秀だ。それに比べてトップのこの目を覆わんばかりの無自覚な言動はどうだろう。トップの発言は重みがある。ここで言う無自覚とは、自身の発する言葉の重さへの自覚のなさを指す。

本書は太平洋戦争以来、なんども反復されてきた組織の「失敗の研究」のバリエーションとしても読むことができるだろう。本書が世に出なければ、この事件に人々がどう関わったか、その細部は曖昧なまま、歴史の中に埋もれてしまうところだった。

ご存知の通り、わが国では公文書というかたちで、歴史を蓄積していくことがほとんど絶望的な状況にある。そんな中、平成を代表する重大事件の「正史」が、書籍として出版されたことにこそ意義があると思うのだ。本書はこれからの出版の使命や可能性についても考えさせてくれた一冊だった。

 

警察庁長官を撃った男 (新潮文庫)
作者:鹿島 圭介
出版社:新潮社
発売日:2012-06-27
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完全秘匿 警察庁長官狙撃事件 (講談社+α文庫)
作者:竹内 明
出版社:講談社
発売日:2016-02-19
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