『遅刻してくれて、ありがとう』加速の時代に「ほどほどの人生」をいかに取り戻すか

首藤 淳哉2018年05月14日 印刷向け表示
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遅刻してくれて、ありがとう(上) 常識が通じない時代の生き方
作者:トーマス・フリードマン 翻訳:伏見 威蕃
出版社:日本経済新聞出版社
発売日:2018-04-25
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遅刻してくれて、ありがとう(下) 常識が通じない時代の生き方
作者:トーマス・フリードマン 翻訳:伏見 威蕃
出版社:日本経済新聞出版社
発売日:2018-04-25
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小学2年生の子どもに「ジャーナリストって何する人?」と訊かれた。子どもの質問はおそろしい。ハシゴを外されるとか背中から撃たれるとか、サラリーマン生活における不意打ちには慣れているつもりだったが、思いがけない方向から簡単には打ち返せないボールを投げてくる。

真っ先に浮かんだのは、「政府が悪いことをしていないか見張る仕事だよ」といういかにも教科書的な回答である。だが子どもは嘘を見抜く。いくら権力の監視役を自任していても、残念ながら会見で政治家を立ち往生させるような鋭い質問をする記者などほとんど見かけない。「そんな人、いないじゃん」と言われて終わりだろう。

あれこれ考えた挙句、こう説明した。「いろいろなところに行って、たくさんの人の話を聴いて、まだ誰も気がついていないことを発見するのが仕事だよ」

この定義が正解かどうかわからない。だがこの時、具体的なジャーナリストの名前が念頭にあったのは確かだ。それはトーマス・フリードマンである。

フリードマンのこれまでの仕事をひとことでまとめるなら、「世界に輪郭を与えること」と表現できるかもしれない。『レクサスとオリーブの木』では、国家の論理に代わりグローバリゼーションの論理が世界を動かしつつあることを示し、『フラット化する世界』では、個人すらもグローバル化する新しい時代の到来を「フラット化」というわかりやすいキーワードで表してみせた。

「これまでと同じようにやっているのになんだかうまくいかないぞ」とか、「一生懸命働いても儲からないのはおかしいな」といった人々が抱く漠然とした違和感に対して、「それはね、世界がこう変わったからなのだよ」と新しい世界像を示してきた。そのいささか楽天的な分析に異論はあっても、フリードマンが世界を大掴みする能力に長けていることは衆目の一致するところではないだろうか。

さて、ならば新刊『遅刻してくれてありがとう』でフリードマンは、私たちにどのような新しい世界の見方を提示しているのだろうか。

本書でフリードマンが目をつけるのは、「加速化」だ。世界はいま信じがたいスピードで変化している。その速さは私たちの思考や制度が追いつかないほどだ。フリードマンによれば、その節目となった歴史的な年は2007年だったという。

いま振り返ると、実は『フラット化する世界』には重要な要素が欠けていたことがわかる。この本が発表された2005年当時は、まだiPhoneもFacebookも存在しなかった。ツイッターは鳥のさえずりを意味する言葉で、クラウドは空に浮かぶものでしかなかった。「ビッグデータはラッパーにぴったりの名前でSkypeは普通の人が見ればタイプミス」といった述懐にクスリと笑いながら、深くうなずく人は多いだろう。これらのテクノロジーやアイデアはすべて2007年前後に私たちの前に現れたものだ。

フリードマンはこの年以降を「加速の時代」と位置付け、世界がいかに劇的に変化してきたかを描き出す。本書によれば、加速化の原動力となっているのは、「ムーアの法則」であり、クラウド・コンピューティングであり、地球環境の変化の3つだ。

約2年ごとに半導体の集積度が2倍になる(つまり幾何級数的に性能が高まっていく)「ムーアの法則」やクラウドによって、人類の暮らしは大きく変わった。これらのテクノロジーは、昨日までは不可能だったようなことを、きょうには可能にしてしまうほどの凄まじいスピードで進化している。おかげで私たちはまるでデジタルのフローの渦に巻き込まれた木の葉のようだ。目まぐるしく変わる景色はたしかに刺激的だが、その代わりどこに連れて行かれるのかは誰にもわからない。

ただ、このあたりの話題まであれば、よく知っているという人も多いだろう。フリードマン流の切り口は、この同じまな板の上に地球環境も並べて見せるところだ。

フリードマンによれば、地球環境の変化も世界の加速化とおおいに関係しているという。近年、一部の地球学者たちが「人新世(アントロポセン)」という時代区分を提唱している。プラスチックやコンクリートのような人類が生み出した堆積物で地表が覆われた現代は、これまでの完新世とは区分して定義すべきではないかというのだ。

爆発的な人口増加がもたらすインパクトは、まさにアントロポセンの大きな課題である。テクノロジーによっていとも簡単に個人が世界を相手にビジネスが出来るようになり、今後数十億単位の貧しい人々がミドルクラスの仲間入りを果たせば、これまで以上に環境への負荷がかかるようになるのは目に見えている。もちろんだからといって彼らが快適な消費生活を望むのを阻むことは出来ない。これは彼らの当然の権利であるし、貧困層にとどまったままでは難民化などさまざまなリスクにさらされるからだ。

こうした加速の時代に対処するために、世界中でさまざまな取り組みが生まれている。本書でフリードマンは膨大な数の専門家から話を聴いているが、いつもながらそうした足で集めたエピソードの数々は実に面白い。

たとえばあのビル・ゲイツが熱く語るのは、ニワトリについてだ。ニワトリは世話がしやすく、簡単に増やすことができる。アフリカで極貧とされるのは年収700ドル以下だが、増えたニワトリを売れば年に1000ドル以上稼げ、これによって世話をする女性たちの力も強まるという。ゲイツ財団では現在、サハラ砂漠以南でワクチンを投与した改良品種のニワトリを飼う世帯を増やそうと取り組んでいる。

意外なことに、加速の時代への対応策としてフリードマンが持ち出すのは、自らのルーツだ。彼の故郷は、ミネソタ州ミネアポリス郊外のセントルイスパークという街。人口4万5千人ほどのいわゆるスモールタウンである。19世紀に新興国アメリカを視察したフランスの青年貴族トクヴィルが、スモールタウンこそがアメリカの民主主義の基盤だと述べたことを思い出す。

フリードマンが子どもだった頃、この街ではミドルクラスになることがひとつの到達点だったという。彼は自らを「社会的にはリベラルで、心底から愛国者で、多元的共存を信奉し、コミュニティを重視し、財政では穏健派で、自由貿易を支持し、イノベーションにこだわる環境保護主義・資本主義者」と規定しているが、かつてはこうした「良識あるミドルクラス」によってコミュニティが支えられていた。

世界が密接につながるようになった一方、リスクもまた一挙に破局的に拡がるようになった。山積する問題に対処するためには、あらゆる分野でイノベーションが必要だが、それは「持続する協力と信頼があることころでしか成立しない」というのがフリードマンの考えだ。そしてそうした協力や信頼は、健全なミドルクラスがいるコミュニティでこそ育まれる。

「冷静な立場から見て私が非常に驚いたのは、加速の時代に人々がレジリエンスを備え、躍進するのを手助けする最高の解決策の多くが、ダウンロードできず、昔ながらのやり方で1人の人間から別の人間へ、1回ずつアップロードしなければならないということだった」

フリードマンは、「ほどほどの人生」が望みづらくなった時代だからこそ、立ち止まって考えよう、と訴える。そのためなら、遅刻してもかまわないではないか、と。このアナログなメッセージを、あなたはどう受け止めるだろうか?

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