『文藝春秋SPECIAL秋号』 2009年8月発売 「賢者は歴史に学ぶ」号

成毛 眞2010年04月28日 印刷向け表示
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故郷忘じがたく候 (文春文庫)
作者:司馬 遼太郎
出版社:文藝春秋
発売日:2004-10-10
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山椒大夫・高瀬舟 (新潮文庫)
作者:森 鴎外
出版社:新潮社
発売日:2006-06
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藤十郎の恋・恩讐の彼方に (新潮文庫)
作者:菊池 寛
出版社:新潮社
発売日:1970-03-27
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手鎖心中 (文春文庫)
作者:井上 ひさし
出版社:文藝春秋
発売日:2009-05-08
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日頃もっぱら手に取るのは科学読み物などのノンフィクションである。純文学も推理小説も子供の頃に読んだだけで、大人になってからは書店でも専門コーナーから足が遠のいた。純文学を読むには感性が鈍磨してしまったし、推理小説を読むにはトリックの伏線すら気づかなくなってしまった。

いっぽうで歴史小説は蓄積した知識や経験の量に比例した楽しみ方ができるし、新たな薀蓄も得ることができる。なによりも、たった一冊の本でタイムトリップすることができるわけで、じつに健康的な現実逃避の手段なのだ。

細川ガラシャを描いた司馬遼太郎の『胡桃に酒』を読んだのは、初めての部長職に就いたときだった。なれない部下の管理や英語でのレポートなどに追われて、円形脱毛症ができていたことである。いっそのこと会社を辞めて、故郷の札幌に帰ろうかなどと思っていたときに、書店で『故郷忘じがたく候』という本を見つけた。はじめは「故郷」という言葉に引っ掛かって読み始めたのだが、三番目に収録されている『胡桃に酒』のほうに共感してしまった。

武家の例にもれず、明智光秀の娘に生まれた「珠」は織田信長の命により細川家に嫁ぐ。その先で待っていたものは、たぐい稀なる美貌ゆえの忍従の日々だったのだが、忠興との関係も戦国の時局も転変しながら、やがて破局をむかえることになる。司馬遼太郎は『竜馬がゆく』や『坂の上の雲』などの超長編こそが白眉であろうが、この本をもって短編でもたいそう楽しめることを知った。じつはこの本以降に歴史小説の短編集を読む習慣ができたといってもよい。

当時勤めていたマイクロソフトでは順調に昇進し、1991年に36才の若さで社長に就任した。経済同友会などの財界活動にも顔をださなければならなくなった。まわりは親よりも年上の先輩ばかりである。当時の財界幹部は若い頃から古典を読み、本物の教養を身につけている立派な方々だった。

ところが当方にはいささか心もとない読書経験しかない。『戦争論』や『君主論』などのビジネスに婉曲的にでも応用できそうな古典は読んでいるが、古今東西の哲学書は全く手付かずだし、なぜか明治の文豪すら教科書で取り上げられたもの以外は読んでいなかった。

付け焼刃で読んでみたのが森鴎外の『高瀬舟』だ。この時はさほどの感動もなければ、深く考えさせられたこともない。けれどいま読み返してみれば、蓄えのない下流社会や安楽死の問題など、20年まえよりも今日のほうが江戸時代に逆戻りしたようである。

仮名遣いなどを現代化しているとはいえ、文体そのものが近代的であり、会話も標準語に近いため、歴史小説というよりは現代小説に近いという印象がある。

『高瀬舟』の物語はさておき、高瀬川と京都に対する興味を抱かせてくれた本だ。この本を読んでいらい京都へ通うことになった。この20年間で高瀬川から木屋町、先斗町から祇園町と数百メートルほど東進した。

高瀬川から4条通を東に進んで鴨川を渡ると南座がある。南座は江戸時代には都万太夫座といっていたらしい。そのことを知ったのは菊池寛の『藤十郎の恋』からだ。

ところで、京の花街に出入りすると、それなりに伝統芸能について知識が必要になる。もてたい一心なのだ。そこで歌舞伎を見に行くようになったのだが、その南座で2005年、中村鴈治郎が231年ぶりに坂田藤十郎を襲名した。

その初代藤十郎を知りたいと読んだのが『藤十郎の恋』だった。歌舞伎好きにとってみると物語の舞台や人物だけでなく、台詞などの文体にも馴染みがある。物語の藤十郎は写実をもとめるあまり、偽りの恋の相手を死なせてしまう。歌舞伎という壮大な絵空事が背景にあればこその小説である。

上方の藤十郎に対して、江戸の勘三郎は「浮かれ心中」という狂言を1997年に初演した。この芝居は井上ひさしの『手鎖心中』を原作とした喜劇だ。『手鎖心中』は1972年の直木賞受賞作なのだから、高校2年生のときに読んだことになる。

子供のときには小説家に憧れたこともあったのだが、この小説を読んで唖然とし、夢が潰えたという覚えがある。面白くも怖く、薀蓄を尽くしていても読みやすい。プロとアマチュアの差は天地ほどもあることを知ったのだ。それ以来、小説家は諦めて大学では商学部を選び、プロのビジネスマンを目指した。

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