『深読みシェイクスピア』 文庫解説 by 渡辺 保

新潮文庫2016年04月28日 印刷向け表示
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深読みシェイクスピア (新潮文庫 ま 47-1)
作者:松岡 和子
出版社:新潮社
発売日:2016-04-28
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シェイクスピアを翻訳する人には二つの大きな障壁があるだろうと私は思う。

一つはシェイクスピアの奥の深さ。およそ古典はシェイクスピアに限らず、ギリシャ悲劇でも「源氏物語」でも近松でも、時代により社会により人によってその解釈は多岐にわたる。その多様性に耐えて今日まで残ったのが真の古典なのであって、真の古典である限りその奥の深さはほとんど無限に近い。そこに正解などというものはない。さればこそ人々は古典の中に日々新しい発見をする。新しい発見が可能であることこそが古典の条件だといってもいい。

シェイクスピアを翻訳しようとすれば、この古典の底なしの淵を避けて通ることが出来ない。むろんそれは苦難と試練の連続であり、同時にまた新しいものを発見する喜びにも満ちているだろうが、たとえいか程喜びに満ちていようとそれが大きな障壁であることにも変わりがない。

もう一つの障壁は、英語で書かれた戯曲を日本語に翻訳する難しさである。むろん翻訳の困難はシェイクスピアに限らない。あるいはまた戯曲の翻訳に限らない。全く違った文化の体系の中で使われた言語を他の言語に翻訳する作業は、単にヨコのものをタテにするのではなく二つの文化の体系を生きることであり、英語と日本語という全く違う体系の二つの言語を経験することである。

以上2点がシェイクスピア翻訳の難しさだろう。しかしここまでは書斎の中で文学的な活動として完結することが出来る。

ひとたびその翻訳が書斎を出て、あるいは出版社の手を離れて、劇場へ——つまり演劇の現場へ出るとどうなるだろうか。

一般的にいえば、翻訳者は活字化した戯曲の翻訳を制作者に渡す。ここから先が一般の観客には解り難いだろうが、それがそのまま上演されるわけではない。一般の人は劇作家の書いた戯曲、あるいは翻訳されたシェイクスピアが一字一句そのまま上演されていると思っているだろうが、そんなことは100%ない。それはシェイクスピアに限らず創作戯曲でも同じである。

「常陸坊海尊」や「近松心中物語」を書いて有名な劇作家秋元松代は、自作のテレビ台本について私にこう漏らした。「私の書いた言葉を正確に喋ったのは森光子たった一人よ」

多くの俳優が劇作家の書いた言葉を勝手に変更するのはもってのほかであるが、そういう場合を除いても、舞台の現場あるいは演出家の演出意図によって戯曲は改変される。これが演出家によるテキスト・レジというものである。舞台には数々の制約があるからで、この演出家がテキスト・レジによって修正したものを「上演台本」という。ほとんどすべての芝居には戯曲とは違う上演台本が存在する。これがなければ芝居は稽古に入れず、したがって幕を開けることも出来ない。

上演台本はまず演出家の演出意図によるが、演出家は当然のことながら自分の演出意図を実現するために多くの外的条件と闘わなければならない。公演時間、舞台転換、あるいはキャスティングした俳優の力量、それらの条件をうまくクリアするために、演出家は戯曲をカットし、改変するのである。

たとえば上演時間の問題。

今日シェイクスピアの戯曲を原作通りに上演することは全く不可能である。「ハムレット」でも「オセロ」でもシェイクスピアの書いた通りに上演されていると思われるかもしれないが、原文通り上演すればおそらく英語にくらべてスピードの遅い日本語のせいもあり、英語から日本語に翻訳すれば長くなるという事情もあって、5時間くらいかかってしまうのである。しかし今日の公演事情では公演を3時間前後に納めなければならない。それではシェイクスピアの戯曲をノーカットで上演することは不可能である。

上演時間は一つの問題に過ぎない。そのほかのさまざまな条件を加味して、演出家の手によって上演台本がつくられる。

そこで出来上がった上演台本は翻訳者の許可を得て、はじめて稽古が始まる。むろん稽古の途中でもさまざまな修正が行われる。そして稽古を経てようやく初日の幕が開く。

こういうケースで行けば、翻訳者は書斎を一歩も出ない。その活動は純粋に文学的な活動であって演劇の現場に関わることもないし、現場のほとんどすべては演出家の手に委ねられる。したがって翻訳という文学的な営為と演劇の現場での営為は全く別れている。

本書の著者松岡和子はシェイクスピアの37本の全作品を個人で翻訳するという、坪内逍遥、小田島雄志に次ぐ3人目の個人全訳の仕事に取り組んでいる。そのなかで松岡和子が多くのシェイクスピア翻訳者と違う点は、書斎を出て演劇の現場——すなわち稽古場に行って、稽古に立ち会い、上演台本を作る作業に参加して、さらにその体験によって翻訳原文の修正を行っている点である。

この体験には三つの意味がある。

第一に、シェイクスピアの書いた言葉を日本語に置き換えるにあたってその言葉を口ずさむ。自分の身体で確かめる。それは翻訳者に限らないだろう。大抵の劇作家もせりふを書くのに口ずさむ。声に出すかどうかは別にして。そうしなければせりふが登場人物の言葉としてフィットするかどうかを確かめることが出来ないからである。ここで英語から日本語に翻訳した言葉が身体化される。これが第一の体験である。

第二の体験はそれを聞くことである。自分が身体化した言葉を持って稽古場に行けば、そこでは自分の言葉を他人の俳優がしゃべっている。そこで起きることは、自分の言葉が他人の身体に移って身体化されることである。自分の言葉の相対化。自分の身体が他人に移る。移るは写る。すなわち松岡和子は己が姿を人の姿に見る。鏡によって自分を見る。これが第二の体験の意味である。

第三の体験は、この鏡の中で起こる。鏡がしゃべる。というのは冗談だが、稽古をしている俳優が質問する。ここはどういう意味か。あるいはこのせりふはどういうつもりでいえばいいのか。あるいは俳優のいうのを聞いていて、訳者自身がおかしいと思う。そういうことがあって再び彼女はシェイクスピアに立ち返る。自分の仕事を再検討すると同時にシェイクスピアの描いた人物の中に入り、作家の精神に入って行く。これでいいのか、いけないのか。そこで彼女は新しい発見をする。

たとえば「ハムレット」の中でのポローニャスの言葉は、息子レアチーズや娘オフィーリヤァにどういう影響を与えているか。

さらにハムレットは常になにかとなにかを比較するが、ポローニャスは比較しないという人間性を発見する。比較するというのは気持ちの動揺だから、この視点から見ると比較しないポローニャスは常に断定的であり、ハムレットの狂気にかられる行動の鍵が見える。ポローニャスとハムレットは対照的な人間であり、シェイクスピアはこの老人と青年の姿を通して人生を演じている二つの人間の姿を描こうとしたのだということがわかってくる。

あるいはまた「マクベス」。weというたった一語の使い方に着目して見るとはじめは一心同体であったマクベスとマクベス夫人夫妻が、ダンカン王暗殺から始まる悪行が進むにつれて段々その絆が破れ、互いに孤独になって行き、ついには死を迎えるという、人間関係の状況の変化が鮮明になってくる。

これは翻訳者がシェイクスピアの身体に入って行くことによってはじめて可能になった新しい発見である。すなわち第三の体験の意味は、ここにある。

以上3つの体験は、シェイクスピア自身の言葉に始まり、それが翻訳者自身に身体化され、さらに稽古場で俳優によって身体化され、それがまた翻訳者自身の身体で再検討され、再びシェイクスピアの言葉に至る。そこで重要なのは、この三者の循環を通して新しい人間像、ドラマの新しい構造が発見されていくことである。その上さらに重要なのは、それが翻訳者自身の自己発見に繋がっているということである。稽古場の片隅で起こるこのドラマは三者の身体を経過して、相互補完的に一つの世界を形成している。

芝居は生き物。松岡和子はその生き物としての芝居の核心に近づいている。それは生きた芝居としてのシェイクスピアをとらえたいという彼女の信念によって展開する。伊達や酔狂で稽古場に行っているのではない。その生き物の実体がこの本の中には生きている。

この本を読みながら私はこの本そのものが一つの舞台、一つの劇場だと思った。そしてその舞台は私に遠く能楽を想像させる。

小森収という絶妙な聞き手がいる。彼は単なるインタビュアーではない。能でいえばワキである。能のワキはただシテに問いかけるだけの役ではない。物語の背景、シテ自身の設定を語るだけでもない。観客——読者とシテを繋ぐ。しかしそれだけでもない。もっとも大事なことは事件の唯一の目撃者として、シテを写す鏡になることである。この鏡の中には二つのものが写って一体になっている。すなわち登場人物その人と同時にその役を演じている能役者である。シェイクスピアの描いた人物と同時に松岡和子自身が映し出されている。そしてその自己発見のドラマが映っている。

この本は、一人の文学者の自己発見のドラマだからこそ美しい。

(平成28年3月、演劇評論家)  

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