『ドビュッシーはワインを美味にするか? 音楽の心理学』 訳者あとがき

早川書房2017年11月07日 印刷向け表示
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ドビュッシーはワインを美味にするか?――音楽の心理学
作者:ジョン パウエル 翻訳:濱野 大道
出版社:早川書房
発売日:2017-11-07
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本書を読んで私がまっさきに思い浮かべたのは、某有名CDショップが使う「NO MUSIC, NO LIFE」(音楽なしじゃ生きていけない)というキャッチフレーズだった。調べてみると、この宣伝文句が使われはじめたのは、もう20年も前の話だという。

私は当初、この文言を「音楽大好き!」「音楽最高!」というメッセージを大げさに強調したものだと考えていた。でも本書を読むと、このキャッチフレーズが文字通りの意味だとわかってくる。つまり、「音楽がなければ、人間は生存できない」という意味だと。音楽が人間の生存にとっていかに不可欠なものか、なぜ私たちは音楽を愛するのか、という謎を本書は見事に解き明かしてくれる。

著者のジョン・パウエルは、イギリスで物理学と音楽音響学を教える大学教授である。この経歴だけを聞くと、いかにも小難しそうな作品だと予想する方も多いかもしれない。しかし前作を読んだ方はすでにおわかりのとおり、その語り口はきわめて平易でウィットに富んだものだ。

前作『響きの科学 ──名曲の秘密から絶対音感まで』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)は、いわゆる「音楽理論」を数式や物理学の専門用語をほとんど用いずに、わかりやすく解説した作品だった。言い換えれば、本来は専門的で難解な内容を、音楽に詳しくない読者のためにかみ砕いたものだった。

一方の今作『ドビュッシーはワインを美味にするか?』で著者が注目したのは、音楽が人間に与える心理的側面だ。つまり、私たちの生活のなかにある身の回りの音楽が人間に与える影響を解説した本であり、前作よりも「生活密着型の音楽」の謎に迫るものだといえる。たとえば、人の性格と音楽の好みの関係は? BGMによって人の購買活動や味覚がどう変わるのか? 歌詞がもつ力とは? 音楽を聴くと頭がよくなるのか? 映画音楽が観客に与える影響とは? 心理学者や音楽学者による研究や実験の結果を引用しながら、パウエルは「音楽家たちが聴き手に魔法をかける方法」を解明していく。

とはいえ、音楽の心理的側面を論じるうえで、基本的な音楽理論の説明を避けることはできない。そのため後半では、前作と同じように、音階や周波数、和音やメロディの仕組みや成り立ちについても説明されている。前作と重複する部分が少しあるものの、今作では専門用語を徹底的に排除しようとする作者の意図がより強く感じられる。前作の読者にはおなじみの「やっかいな詳細」(難解な音楽理論を徹底解説する巻末のセクション)でも、今回はほとんど専門用語が使われていない(本作を読んだあとに前作を読むと、音楽理論の理解がさらに深まる気がする)。

個人的には、訳しながら「そうそう!」と納得し、「なるほど」と思わず膝を打ち、さらに最初から最後まで作者のジョークに笑いっぱなしだった。正直、これほど愉しく、かつ学ぶことが多かった翻訳体験は初めてだった。それと同時に、自分の「音楽人生」を見透かされたような気恥ずかしさも覚えた。どうして私の(音楽の)秘密を知っているんだろう、と。

たとえば本書の冒頭と終盤には、人間の音楽への態度や好みの変遷について語られるセクションがある。人は10代後半から20代前半にもっとも多くの音楽に触れ、歳をとるにつれてシンプルな音楽から複雑な音楽を好むようになる。また、歳とともに、新しい音楽を探す情熱が薄れるという。このような説明を読んでいると、あたかも自分の音楽人生について語られているような気さえしてきたのだった。

さらに、楽器の学習経験についても、本書の解説にきっと多くの人が共感を覚えるはずだ。ここでも私は、著者に音楽人生をのぞき見られたような気分になった。私の楽器学習の歴史は、親に楽器を買ってもらう(あるいは音楽教室に通う)→少しがんばる→ろくすっぽ練習しない、というパターンの連続だった。幼稚園時代にはエレクトーン教室に通わされたが、後半はほとんど練習した覚えがない。小学校のときにはハーモニカ、中学生のときにはキーボードを買ってもらったが、そのうち飽きて練習をしなくなった。高校時代には、自分に歌の才能があるかどうかをどうしても一度確かめたくて声楽を習いはじめたものの、才能などあるわけもなく、一年ほどで投げ出してしまった──。自分には音楽の才能がない、と私はこれまで思いつづけて生きてきた。

でも本書によれば、私になかったのは音楽の才能ではなく、「練習する才能」だったのかもしれない。この本を読んで、若いころにあきらめた楽器の練習を再び始めよう、と考える方もいるかもしれない。あるいは、やはり練習する才能がなさそうだと尻込みする人もいるだろう。いずれにしても、本書はあなたの音楽人生になんらかの標を残してくれるはずだ。

ところで、すでに本文を読み終えた方、あるいは前作を読んだ方はおわかりだと思うが、著者のジョン・パウエル氏はブリティッシュ・ジョークが大好きだ。皮肉いっぱいのブリティッシュ・ジョークの数々に、翻訳しながらずっと笑わせてもらった。こんなにブラックでいいの? と訳者としてドキッとする箇所もあった。また一部において、難解あるいはシュールすぎて日本の読者に伝わりそうもないジョークや比喩がいくつかあった。私自身も理解に苦しみ、どうしてもわからないときには、解釈について著者にメールで質問した。すると、驚くほど丁寧なメールがすぐさま返ってきて(たった1行の質問に対して10数行にもわたって説明してくれることもあった)、イギリスに住むイギリス人でなければ意味をとるのがむずかしいジョークであると解説してくれた。

一部のジョークについては、著者自身が「日本バージョン」に書き換えてくれた(原著者にこういった質問をした場合、「そちらで勝手にカットしてください」と言われることがほとんどだが、わざわざ書き換えてまでジョークを残そうとするあたりに、著者の真摯な執筆姿勢とジョーク愛を垣間見た気がした)。くわえて、原書内で例として使われる楽曲の一部を、著者の了解のもと、日本の読者になじみ深いものに差し替えたほか、本篇の後の「やっかいな詳細」の一部を割愛した。

音楽の力は計り知れない──ジョン・パウエルは読者にそう訴える。音楽は人の命を救うこともある。音楽は自己確立のプロセスの中心的な役割を担うものだ、と。なぜ人は音楽が好きなのか? なぜ特定の人が特定のジャンルを好むのか? 本書を通して、読者はその謎を知ることになる。そのカラクリを理解したとき、いままで以上に音楽が愉しいものになり、音楽人生がさらに豊かになることはまちがいない。

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